バーナード・リーチ
Bernard Howell Leach
1887年(明治20年)1月5日 香港生まれ。
1979年(昭和54年)没。

 幼少の頃、日本に居たこともあってか、日本にあこがれていたリーチはある日、 留学中の若き日の高村光太郎に出会います。
  エッチングを教えながら日本で生活すれば何とかなるかも、そんなアドバイスを受けてついに日本へ。
  『東洋と西洋の結婚』を夢見ながら。

 東京下町の上野桜木町(台東区)の自宅でエッチングの公開教授をはじめたとき、そこに柳、志賀、武者、児島喜久雄、里美ク(とん)の『白樺』同人が参加します。 のちに岸田劉生も参加した模様。
 これが『白樺』の中心人物たちとの最初の出会い。

 高村を通じて知り合った 富本憲吉と親交を結び、生涯の友となります。 富本を通訳に頼み、弟子を取らなかった六世 尾形乾山に弟子入りを達成。 ついでに富本も弟子入り。
  エッチングを教えるどころか、陶工を学ぶ立場に変わり、ここに陶芸家リーチが誕生することになります。 後に二人は皆伝目録を受け、七世 乾山を名乗ることを許されます。

 白樺派の思想的中心人物は柳宗悦で、柳の思想を決定づけたのがウィリアム・ブレイクでした。 当時、イギリスでも異端視されていたブレイクを高く評価し、柳に紹介したのがバーナード・リーチだったのです。
  柳とは我孫子時代に熱い激論を交わしつづけた仲で生涯の友でもありました。 のちに『我孫子時代が自分の生涯で最良の時代であった。』とリーチは述懐 しています。 それほど魅力的な親交が白樺文人たちとの間にあったのでしょう。

 そんなある日、若き日の 濱田庄司が我孫子の柳とリーチを訪れます。
陶芸の大家、濱田庄司と民藝運動の誕生の瞬間です。 後に濱田とともに帰英し、ヨーロッパで最初の登り窯を築くことになります。

 帰英後、リーチもまた英国の民藝(スリップウェア)の復興、柳の論文の英訳、 陶芸活動に励み、英国でも三指に入る陶芸家として活動を続けました。
  日本民藝館設立の際には、柳宗悦・ 河井寛次郎・濱田庄司とともに協議に参加。

 その後も柳や濱田とは生涯の友として世界を舞台にともに活動を続けました。

2000年10月
古林 治
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