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  • 230. タケセン70年の実存の冒険   恋知への道のり 私が輝く私塾と哲学の切り開き

  • 230. タケセン70年の実存の冒険
            恋知への道のり
            私が輝く私塾と哲学の切り開き  

      以下に、タケセン(館長・武田康弘)70年の実存の冒険、「恋知への道のり」を紹介します。
    長いので前編と後編に分かれてます。じっくりご覧になりたい方は、PDFにまとめてありますので、そちらをダウンロード願います。 

     少し経緯について触れます。
     タケセンは、これまで「丸刈り強制撤廃運動」、「千葉県初の市民派市長誕生」、「白樺文学館設立」、「白樺教育館設立」、「公共哲学論争」など、前例のない革新的な社会活動の中心的存在となってきました。また、こどもたちのダイビング(伊豆七島でのキャンプ&ダイビング)の草分けで、43年間(1976年~2019年、ここ3年間はコロナ騒動でキャンプ場閉鎖)続けてきました(「月刊マリンダイビング」誌に10年連載)。
     と同時に、ほんらいの意味での哲学者(恋知者)ですが、その事実を話しても誰も信じてくれません。

     「そんなバカな、一人でそんなこと、できるはずがない!」 と咆える人。
    あるいは、

    「バックは一体何だ? 誰なんだ?」 と詰問するような人が後を絶ちません(笑)

     そういうわけで、実感として理解してもらうには、タケセンのこれまでの「実存としての生」=体験を時系列に赤裸々に描いてもらうしかないと常々考えてきました。 それがようやく実現することになったというわけです。

      じっくりご覧ください。

     ※「恋知への道のり 20年間の身体の闘いと、 私が輝く私塾と哲学の切り開き。」
      =>PDF (5.3MB 2022年11月6日 初版第8刷)


     

     

     

     

     

    ● 恋知への道のり

        20年間の身体の闘いと、
           私が輝く私塾と哲学の切り開き。
     (前編)

     後編=>          

     

     わたしは、生れながらに病気ばかりでした。
    アレルギー体質でいつも湿疹で悩まされました。 2才のときにヘルニアの手術で、聖路加病院に入院したとき、完全介護で、親から離されて一人にされましたが、その時の言葉にならぬ不安・恐怖感は今でも覚えています。それは母の方針だったようですが、こどもに与える心理的な不安の大きさは、大人の想像を遥かに超えるもので、その負の経験は今に生きています。こどもの心への配慮ほど大切なものはありません。大人は平気で傷つけます。 


    (小学5年生・11才
      親友の 木原君の母さんと) 

     身体の話しに戻しますが、幼稚園児の時は、肝臓病で40日間もねたきりになり、その苦しさ・気持ちの悪さは今でも忘れられません。
    また、足のひざが変形して、左右が揃わなかったので、少し余分に歩くと足が痛くて眠れませんでした。 

     小学5年生からは、胃潰瘍で、毎日、朝食後しばらくしてからから昼食時にかけてなんとも言いようのない気持ち悪さ・苦しさでした。この時から虎ノ門病院に通い出しました。それは2年間近く、6年生まで続き、少し治まったかな、と思ったら、今度は、中学1年生の中ごろから、十二指腸潰瘍で苦しみ、20才で導引術の本に偶然に出会ってよくなるまで病院通いは続きました。 

     でも、足の変形も、複数の内臓病も、アレルギーもみな克服しました。完全に、とはいきませんが、毎日、よいと思うことを繰り返しているうちに、だんだんと治ってきたのです。 

     そのようにして生きてきたからでしょうが、自分で日々努力する、自分で試してなんでもやってみる、自分の心身の声に従う、というのは当たり前になり、他者の指図で動くことにはプラス価値がないことを身をもってしりました。大病院に通い続け、医師の言う通りにし、毎日、多量の薬を飲んでもよくならなかったのです。それが、自分で見つけた(偶然に図書館で出会った)導引術の考え方で簡単な体操をしたら、グングンよくなったのは、とても貴重な体験でした。 

     わたしは、それ以降のさまざまな経験で、そのことの大事さを再確認する人生となりました。自分の心身全体で感じ想うことにつき、他者の言うことや判断や見方には幻惑されなくなったのです。他者があるいは世間常識から見てマイナスと思われても、何事もわたしがよいと思えばよいのです。犯罪でもない限り(笑)。それは、幾度も実証されることになり、今に至っています。 

     わたしが、なんの組織や団体にも入らず、考え方もやり方もなにもかも全部自分でつくった私塾で仕事をし続けて今日に至ったのは、そういう体験と生れながらの「煮ても焼いても食えない」性質のせいです(笑)。父母とも毎日のような対話(父とは穏やかで楽しく、母とはガチンコの言い合い)は養分たっぷりでした~~~~~~~~。 

     この毎日のようにしていた対話は、その後のわたしの人生を決定づけたと思います。父は、とても穏やかで優しい人で、猫と犬と伝書バトと小鳥・・といろいろ飼っていました。こども好きで、役所勤めで時間の余裕があったので、毎日のように遊び、学習もみてくれましたが、怒ったことは一度もありませんでした。夜、寝る前は、いつもお話をしてくれましたが、それは、教育のためにとかではなく、こどもと関わるのが好きなので、休みの日には山や川や海の自然の中に、また都内の名所や遊園地に連れて行ってくれました。わたしは、いつでもどこでも質問ぜめで、父は考えながら、丁寧にこたえてくれました。それは、覚えるのではなく、考えることの面白さや大事さをわたしの心身に沁み込ませたようです。
     不思議なほど父は何も指図しませんでした。手助けはしてくれますし、聞いたことには応えてくれますが、何かをすべきとは言いません。とても親切なのですが、こどもに教えるという態度ではないのです。いま思うと、親鸞の他力思想が中学生の頃からの修行で身についていたのかも知れません(早世した父の父は僧侶でした)。未だボスざるのような(笑)男権というか父権を振り回す父親もいるようですが、それには百害あって一利なしです。すぐにやめなさい!
     反対に、神田生まれの母とのガチンコの言い合い(笑)は、負けない精神をつくったようです。どこまでも主張し合う中で、身体は病気でも、心は折れない、へこたれない、そして引っ込まない、というわけです。  

     まあ、なんでも自分の頭で考え、自分でやってみる、きちんと主張するというのは、このような環境の中でついてしまった(笑)のでしょう。全然日本人的ではないですが、それは最高の幸せです。明治政府が捏造した天皇教という国家宗教の影響はわたしには少しもありませんが、それは人間としてよく生きるための基本条件だからです。  
     でも、幼いころから人の話しはよく聞き、むやみに我を張ることはなく、幼稚園の通知表にはいつも「人の嫌がることも進んでやる」と書かれ、小学校の教師には「公平・公正なリーダー」と言われ、友人の親には「武田君となら」と信用されていました。祖母にはいつも「康はいい子だ」(理由は分からない・笑)と言われ、悪ガキではありませんでした。女性の先生には評価され「ひいき」と言われるほどでしたが、ひいきされても意見は遠慮なく言い、6年生の担任を追い込んで泣かせてしまったことがあります。個人主義と利己主義を混同しているので、それを指摘し、先生が反論するので、その間違いを説明したら泣いてしまったのです。わたしには全然悪気はなかったのです。同じことが30才後半に師の竹内芳郎さんの時にもあり、「武田さんはわたしの生き方を認めてくださらない」と泣かれてしまいました。わたしは、竹内哲学を高く評価して、その上で哲学の原理次元における直接経験=体験の必要と大事さを話しただけなのに。 

     そういえば、体育会系の男性教師には小学6年生の時と中学2年生の時に2回ひどく殴られたことがありましたが、それは教師の勘違いでしたので、母が学校に行き、きちんと謝罪させました。体罰そのものも反省させ、二度としないと約束させました。 


     わたしの仕事は、とにかく、誰のアドバイスもなしでしてきました。全身の細胞で考える! 自らの心と身体と頭のすべて使って、感じ、思い、考え、行動して生きてきわけです。 

     教室の備品も自分で工作しました。教室の大きな引っ越しも二度、自分でやりましたが、これには、教え子や鎌ヶ谷とわの会のみなさんが大いに助力してくれました(感謝)。 古い教室を改築したときも、2002年に始まる白樺教育館の設計(完成は2004年1月)も、具体的な細かな寸法を含めて全部わたしが決めました。 

     時間は戻りますが、1979年にはじめて高額のローンを組んで大型反射望遠鏡を買い、古い貸家の狭い庭に設置した(写真)のは昨日のよう。43年前ですが、ローンを組むとき怖くて震えました。望遠鏡は今も白樺教育館屋上で現役ですが、我孫子天体観測所として生徒や父母、近所の人たちに月面や惑星面をお見せし、自宅が出来てからは屋上で観望会。ハレー彗星接近のときは、多い日は一度に50名ほどの人に見てもらいました。1994年のシューメーカー・レヴイ第9彗星の木星衝突の時には、全くの予想外、木星面に数個の大きな黒い斑点を見せてくれました。世界中の天文学者は地球から望遠鏡で変化が見れるとは誰も予想していませんでしたので、仰天!「おおっ、うそ!」と叫んでしまいました。慌てて中1の息子に見せました。

     一つづつ思い出を書いていたらきりがないでのでやめますが、とにかく嫌になるほど一人でなにもかもです(笑)。オリジナルの塊ですが、誰もやったことがない事業なので、そうするよりほかになかったのです。 

    ここで一休み。わたしの趣味の話。 

     小学3年生からの写真趣味は、段々と昂じて独学で暗室作業を覚え、天体写真、月面や惑星面の引伸しのために、細かな焼き込みや覆い焼き、数枚を重ねるコンポジットなどの技術を身に着けて、天文雑誌に投稿するようになりました。
     大学生のころからは、ピアノの発表会の写真などの仕事もして稼ぎました(趣味ではない~・笑)。また選挙のポスター写真も多く撮ってきましたが、従来の形に囚われずに人間味の出た写真を目がけ、喜ばれて収益にもなりました。
     息子が生まれたころ、偶然の出合いで親しくなった造形作家の松岡信夫さん(当時は売れていなかった・笑)の依頼で、鉄の作品の写真を撮り、暗室技術を高度に駆使してオリジナルプリントをつくり差し上げたりもしましたが、見返りに松岡作品を幾つも頂きました(笑)。わたしの門扉(全倍に引伸)や照明器具(案内状)の写真にプロが脱帽したというのは、嬉しいこと。松岡さんとは40年以上、密で長いお付き合いが続いています。 

     また、秋葉原の隣、神田須田町に住んでいましたから、中学3年生の終りころからよい音で音楽を聴きたい一心でオーディオにのめり込み、1週間に3日は散歩がてらに視聴室通いで耳を鍛えました。同時にスピーカーを自作し、次第に大型のものをつくり内容積155リットル×2、+38cmスーパーウーハー200リットルという大型システムに至り部屋を占拠することになりました。18才のときです。アンプは大型の真空管で、LPプレーヤーは砂を充填した強靭な躯体の箱を自作し、音楽やオーディオ仲間みなに絶賛されました。高校生時代にアルバイトで得たお金を全部つぎ込んで、それでも足りないので親や祖母に出してもらいました。 そういうわけで、多くの経験を積んでよい音をつくることが特技になった為に、人に頼まれて、たくさんの装置を組むことになりました。数百万円のものまで含めて優に数十組はつくりましたが、見返りもあり、実益も(笑)。どうも趣味と実益がついて回ります。 

     このころは大好きな海のほかに、体力づくりも兼ねて奥多摩や奥武蔵での山登りも頻繁にしました。ただ、わたしは足に弱点があるので、3000m級の高い山は、北岳に3回、仙丈岳に一度でお終いにしました。
     高尾山には、星を見に口径8cmの小型の反射望遠鏡をかついで親友の鈴木英男君と夕方(時には夜)に登り、明け方まで星見をして朝、始発の京王線で帰るというのをよくやりました。一晩中、冗談話から天文学や哲学や政治や社会問題などの話しをしてとても楽しかった! 中3の終りの時からです。その頃は、高尾山に行く人は今とはちがい、さほどいませんでした。 

    43年間続けたキャンプ&ダイビング 伊豆七島 

     幼いころから一番好きなのは海! ダイビングは18才のころ(1970年)から主に一人で外房、南房総、荒崎、伊豆半島のあちこち、伊豆七島の大島、式根島、神津島、三宅島で冒険しましたが、その経験が後に、【こどもたちのキャンプ&ダイビング】に繋がり、月刊『マリンダイビング』誌で1980年から10年間にわたり記事を書くことにもなりました。67才の時まで43年間続けましたが、新型コロナでキャンプ場が閉鎖、同時にわたしの足の痺れと痛みでストップですが、来年から再開できればいいな、と思っています。
     わたしが18のころから海に潜っての遊びをしていた時は、まだダイビングという言葉はあまり使われず、「素潜り」と言っていました。素潜り15mはなかなかのもので、5階建てのビルと同じです(最高は式根島大浦湾沖で20m)。息止めの練習はよくやり3分間できました。70歳になった今もプールで35メートルは息継ぎなしです。 


    (2015年 63才 式根島)

     わたしはこどもたちを連れて海で自由に遊ばせるために、体力づくりをかかさずにしています。学生時代に科学的トレーニングの本を読み、一人で基本に忠実に筋力や敏捷性を鍛えてきましたが、それが「相撲無敗」伝説を生み、合気道日本一の自衛官(妻の従妹)にも勝ってしまいました。他人と競わないマイペースは大きな成果を生みます。何事もそうです。
     43年間(4泊5日・船中1泊)真夏の炎天下でハードなキャンプを続けましが、事故はありません(足の裏を割れた瓶を踏んで怪我をした子がいただけです)。
     熱中症になった子も一人もいません。髪と帽子をびしょびしょに濡らすのは必需ですが、大事なのは心にストレスを与えないことです。自由自由自由、自由の時空間を保障すると、こどもは上手に自然に溶け込みます。大人が普段からそういう精神で生きていないと子どもを自由に遊ばせることはできないので、実行できる大人はほとんどいません、大人はツマラナイ常識に囚われていて、その枠内に子どもを入れようとします。愚かです。今まで心臓病の子も、ひどい喘息の子も、皮膚アレルギーの子も参加しましたが、みな元気溌剌!薬を飲むのも忘れます。ストレス蒸発は最高の薬。わたしはキャンプ&ダイビングをはじめさまざまな野外活動で「自由こそは安全への道」を実証してきました。 

     2018年には、エリアカザン(株)の社長に頼まれて、  中国のシュタイナー学校の子どもたち23人を式根島の海で遊ばせ、海中の美しさを全身で知ってもらいました。夜は雲かと見まがうほどの天の川とわたしの宇宙の話しに子どもも引率の大人も大感激で、みなが「日本で一番いいところは式根島」と言い、子どもたちは、翌年も「武田先生と一緒式根島に行きたい」と学校で運動を始めたとのことでしたが、7月上旬ではわたしは授業なので無理、残念ですが、諦めてもらいました。 


    1983年の神津島キャンプダイビング 31才

     毎日の楽しみは、音楽です。小学生の低学年から母の亡くなった兄が所有していたSPレコード(78回転)をかけて遊んでいました(ワルター指揮の田園、フルトヴェングラー指揮の運命など)。すぐ終るので全曲聞くのがたいへん!
     中学生になってからは、LPレコードを買い始めましたが、一月に一枚買うのが精一杯でした。高校1年生からは、吹奏楽部でトロンボーンを吹き、音のよさを皆に褒められたのは自慢です。今、CDは2500枚ほどありますが、音楽を聞かない日はありません。昔も今も、一番好きなのはベートーヴェンです。シューマンのことば通り「バッハの深い境地、モーツァルトの高い境地、ベートーヴェンの深さと高さを併せ持った境地」です。人間のあらゆる感情の表出、命の律動の強さ、強靭なイデー、優しさ、数十年間、感動しっぱなし~~。ベートーヴェンが言う通り、「わたしの音楽は、どのような思想や哲学も超えた啓示だ」「わたしの音楽の意味を見ぬきえた者は、どのような人生の悲惨にも打ち勝つだろう」 その通り!!
     わたしの敬愛する指揮者は、20世紀のクレンペラー(ユダヤ系ドイツ人)。今は、クルレンティス(アテネ生まれのギリシャ人)です。
     一番深く印象に残っている演奏会は、21才のとき1973年に初来日したムラヴィンスキー指揮レニングラードフィルです。曲目はショスタコーヴィチの交響曲6番とチャイコフスキー交響曲5番で、親友の鈴木英男君とです。 次に2019年2月に初来日したクルレンティス指揮ムジカ・エテルナです。曲目はチャイコフスキーヴァイオリン協奏曲(ソリストは同伴者で世界最高のコパチンスカヤ)とチャイコフスキー交響曲4番。これは、白樺の仲間や作曲家の二宮玲子さんを誘ってです。また、2015年、皇太子(現天皇の徳仁さん)が一人で来ていた為なのか全力で弾いていたウィーンフィルにも感嘆しましたが、素晴らしい演奏会はたくさんあり、あげるとキリがないので、前者の二つとします。 

    趣味の話しが長くなりました。話しを戻します。 

     高校2年生の時(1968年)に、各クラス委員の全員賛同で、わたしは全学議長に選ばれ、校長及び学年主任などの教師たちとの話し合い(生徒はわたし一人に先生側は三名)により、校則の大幅自由化とゼミ式授業の導入などの学校改革を成就させたのですが、高3のとき、それをNHKの「10代ととともに」(69年5月2日放映・写真)という番組で話し、当時の東京都教育委員会の小尾乕雄委員長と討論になり論破! みなに褒められました(笑)。
     高校改革の成功をよい経験として、24才の時1976年に私塾(当時は我孫子児童教室という名称)を開き、同時に我孫子児童教育研究会を主宰し、1987年からは我孫子哲学研究会も開きました。 

     1976年(24才時)に始めた私塾では、従来の公式あてはめや丸暗記による学習ではなく、意味を掴む哲学的な学びを実践することを工夫し、まだまだ受験知の残滓がある自分自身の変革と、こどもたちの新たな学びの方法の探求の双方を同時に行いました。 

     このわたしの私塾の方法と考え方については、依頼されて『環境会議』の2012年の春号に記しました≪「全身の細胞で考える・知の冒険を始めよう」惰性態から脱するソクラテス対話の力≫という表題です。そこから一部を抜粋してご紹介します。

     小学生からの勉強の仕方が自分の頭で考えるための鍵

      ・・・・では本題です。自分の頭でイキイキ考えるためにはどうするか。白樺教育館のソクラテス教室でわたしがしていることを少しお話します。まず小学生の音読ですが、「スラスラ上手に読めるように」はよくありません。アナウンサーのように読むのは外側からの読みで。内側からの知を育てないのです。情景を思い浮かべ、感情移入し、意味をつかみながら読む練習をします。ゆっくりがよいのです。このような読み方を身に付けると、文脈に沿って全体の意味をつかむ能動的な読書が可能になります。部分読みの「受験国語」の達人は、字面しか分からず、愚かです。
     どのような学習でもみな同じですが、目的は「意味をつかむこと」ことです。
     算数でいえば、公式を覚えてあてはめる学習は、外付けの知でしかなく内的な論理の世界が広がりません。例えば、面積は広さを数字で表す必要から生まれた概念ですが、元の意味がわかれば、公式などしらなくても誰でも納得でき簡単に解けます。体積(おおきさ)も同じ。速さの問題も三つの公式を覚えさせるのは無意味です。速さという概念(一定の時間にどれだけの距離を進めるか)が了解できると、時間や距離を求めることも簡単です。
     ただし、計算問題で理屈を先行させるのは禁物。1年生であれば、10-1から10-9までの計算を何十回も繰り返すことが先です。それが身体化しないと、繰り下がりの引き算の意味を教えても、うまく頭に入りません。これらはほんの一例ですが、さまざまな教科において、このような方法論がイキイキ頭を生みます(全文は、  白樺教育館のホームぺージ139をごらんください)。あっ!一番大切なことを書き忘れました。すべての大人は、自分が知っていて、こどもに教えるという態度ですが、そうではなく、またゼロから一緒に考えるのです。う~ん、こうかな? あれっ、難しいね。ああ、こう考えたらいいかな~~、そうすることで子どもは内的に意味を追い考えるようになっていきます。大人への授業でも同じことです。何事も始めからまた考え直してみる、という態度が大切です。 


    竹内芳郎氏(63才)
    1987年 竹内氏自宅で
    武田康弘(35才)撮影:佐野力

     哲学研究会では、西欧哲学を熟読し、近代社会を拓いた思想を主体化するために努力し、日本の封建道徳(儒教による)と明治政府がつくった【天皇教という国家宗教】の悪弊を大元から断つために、新しい人間の生き方と社会を拓くための哲学的思想づくりに没頭しました。
     その過程で、哲学者でサルトル等の邦訳者・竹内芳郎さんの全著作を精読しましたが、わたしの教え子の綿貫信一君が絡んで深い交流に発展し、後日、「討論塾」立ち上げにつながりました。それについては、 「竹内芳郎さんとの出合いと交際」をご覧ください。 

     また、その後に友人となった竹田青嗣さんとのことは 「竹田青嗣さんとの出合いと対談」に記しました。ともに白樺教育館ホームページ 白樺だより227「恋知エピソード1」。二人とは異なるわたしの恋知(フィロソフィーの正訳)についても記してあります。 

     ただし、わたしは、読書としての哲学とは異なり、わたし自身の体験としての哲学を目がけたのです。書物としては、中学2年生のとき、帰り道の東大正門前にある書店で、ヤスパースの「哲学入門」を買ったの最初でしたが(神田から越境入学で文京区立第六中学校に通っていた)、共感する箇所とまったく受け入れがたい考え方が共存する本でした。その後に読んだ思想・哲学の本はみな同じで、西洋人独特の思想には利点もありますが、腑に落ちない考え方も多く、きちんと読みましたが、このままではとても現代世界には通用しないと思いました。キリスト教という独特な思想が、自然さをそこなっているのです。
     無神論とか唯物論といわれるものも、キリスト教の神を意識したアンチなので、仰々しくわざとらしいのです。ですから、わたしは、日々の体験を基にして自分の頭で考える営みを日課として哲学をしてきました。本を読んで他人の考えを覚えるのではなく、自分自身で考えるのは、楽しく面白く有益です。 

     今も昔も哲学書を読む人の多くは、他人が読めない難しい本を読んでいることの優越意識の獲得なので困ります。また、「哲学言語ゲーム」という特殊な趣味を哲学だと主張するグループもあります。
     わたしは、哲学書の研究をしてきたのではなく、哲学する者として生きてきたのです。自分の頭で考える悦びを広げてきました。雑多で混乱した考えを分明・明晰にしてまとめるのには快感があります。狭く固定した見方や思想から自由に羽ばたくのは幸せです。新たな考えが湧いてくる嬉しさはなんとも言えません。ソクラテスの哲学者(正しい訳語は恋知者)の定義は、「知を求め、美を愛し、楽を好み、恋に生きるエロースの人」です。人間のもっとも高い魂は、そこにある、と言います。なんと素晴らしいことでしょうか!!
     わたしは、高校、大学の時にはマルクスの本もよく読み、感動もしましたが、共産主義のつくる理論や現実運動には違和を感じて離れました。自由、豊かさ、魅力、に乏しいのです。 

     わたしは、小学6年生のとき、欲望と言う概念に悩んでいました。祖父(父の幼いころに亡くなったので知りませんが)が僧侶で、父も半分僧侶(勤めは労働省)でしたから、釈迦のいう煩悩という欲望について考えていました。人間が生きるのはすべて欲望なのだから、欲望をなくしたら生きられなくなる、どう考えたらよいのかを悩んだのです。そして分かりました。欲望の種類が問題で、欲望自体は悪いことではなく、よいことだ。自分に、また他の人にもプラスになる欲望があり、マイナスになる欲望もある。それを見極める事が必要で大切。そう考えたのですが、それはその後、今日までずっと同じです。欲望の大きなことはよいことで、その質、ありようを吟味して、世間の見方ではなくて、自分の真心からほんとうに「よい」と思われる欲望を追及するという人生です。自他が得する徳の追及です。欲望は階段をのぼり高まっていき、最大・最高の欲望は、善美そのものを目がける欲望で、花咲じいさんが、枯れ木に花を咲かせたいというのは、欲がないのではなく、最も大きな欲望です。 

    小学生の「政治クラブ」から公共哲学論争へ。 

     時間は戻ります。小学5年生のときにクラブ活動がはじまりましたが、社会問題に関心が高かったので「政治クラブ」をつくってもらいました。そこでは天皇主権の明治の「大日本帝国憲法」と国民主権の「日本国憲法」との比較をしたり、資本主義と社会主義の違いや優劣を生徒同志で討論しました。新聞の社説も読んでいましたし、果てはアランの幸福論について話しあったりしました。政治を超えて哲学クラブのようでした。 

     そういう経験が小学生の時にあり、そこから社会、公共問題についてはいつも自分なりに考える習慣を持っていましたが、53歳のとき2005年にAmazonに『公共哲学とは何か』(ちくま新書・山脇直司東大大学院教授著)に対して辛口の批評を書いたのが切っ掛けで、東京大学を中心に千葉大学、学習院大学、法政大学などで展開されていた【公共哲学運動】の第一人者である金泰昌(キム テチャンTaechang kim)=東大出版会刊のシリーズ『公共哲学』全20巻の総責任者がわたしを訪ねて来られ、自宅と白樺教育館で半日をかけて対論となりました。


    (Kimさん 72才 わたし54才)

     わたしは、そこで、東大出版会の編集方針である「公」と「私」を媒介する「公共」、という思想に対して、明確に否と言い、その思想は、民主主義の原理に反すると述べました。そこから Kimさんとの長い交流が始まりましたが、その時、偶然にわたしが主宰する「ソクラテス教室大学クラス」に通う荒井達夫さん(参議院調査室勤務)が公共哲学論争に関心をもったために、事態は思わぬ方向に発展しました。 

     わたしより2歳年少の荒井達夫さんは、我孫子市の湖北に住む国会所属の官僚ですが、自民党の参議院議員が新憲法をつくるにあたり、法案作りの専門家の荒井さんに、「日本の国柄に合わせたいので社会契約説に依らない憲法案をつくりたい」と相談に来たとのことでしたが、「社会契約とは何か? 社会契約ではない憲法案とはどういうものか?」が全く分からないので、というのでわたしに教えを請いに大学クラスに通っていました。
     そこでルソーの『社会契約論』を中山さんの新訳で、ジュネーブ草稿も併せて載っている光文社文庫を使い、授業をして、主権者を国民とする近代社会を拓いた哲学思想であり、これに依拠しないというなら明治憲法に戻して天皇中心とするほかないが、それはありえない思想で、国連から追い出される!(笑)ことを教えたのでした。それにしても自民党国会議員のあまりの低次元(思想音痴で頭が悪すぎる)には呆れ返りました。 


    (参議院で討論 55才)

     そこから前代未聞の 参議院調査室主宰での討論会となったのです。2008年1月に金泰昌さん(キムテチャンTaechang kim、公共哲学の最高責任者)とわたし武田と山脇直司さん(東大教授でKimさんに私を紹介した人)と荒井さん(参議院調査室)の4名により行なわれ、聴者は、各調査室の室長と首席、それに人事院からも7名の都合40名余でした。参院史上初!といわれる激論が闘わせられましたが、Kimさんや山脇さんの主張する「公共」の概念には大きな疑義が持たれ、民主制の原理につくわたしの思想が通り、結果として、人事院から以前より公務員研修(初任者研修と課長級研修)を依頼されていたKimさんは、4月からの依頼がなくなり、研修は終わりました。
    (Kimさんを人事院に推薦したのは、第27代東大総長の佐々木毅さんです) 

     このことの経緯は、 『恋知第3章 民主制と公共思想』に詳しく書きました。これは、参議院行政監視委員会調査室より参議院議員にも配付されました。なお、Kimさんと私の哲学往復書簡30回は、東大出版会より 『共に公共哲学する』のメインとして出ました。 

     そうした経緯も影響したと思いますが、荒井達夫さんの強いプッシュもあり、わたしは、参議院行政監視委員会の客員調査員に任命され、国会所属の官僚たちに、哲学と日本国憲法の哲学的土台を講義することになりました。「武田先生の講義は面白いが、自分で考えるところに追い込まれるので、頭が疲れて真っ白になる。講義の後は仕事にならない」ということに(笑)。2009~2010の1年間でした。
     同時期、2010年6月には 「新しい公共について考える」と題するパネルディスカッションが参議院で行なわれ、旧友たち(竹田青嗣・福嶋裕彦)と元検察官で民主派の郷原信郎さんとわたしの4名で、「新しい公共は、国家の公ではなく、市民の公共である」ことを確認したのでした。 

    我孫子市の中学校、丸刈りと体罰との闘い―千葉県全体を変える 

     時間は戻りますが、1986年にはじめた社会を変える実践は、我孫子市の中学校で行われていた坊主頭の強制と、体罰の日常化をやめさせたことでしたが、これは、大変な力技となりました。新聞もテレビも入り込んで、我孫子市全体が異様な状況になり、まるで革命前夜?のようでした。私の活動を朝から晩まで追いかけて日本テレビの徳光さんのニュース番組が2度も特集を組み、「我孫子丸刈り強制」の文字は新聞のテレビ欄に表示されて、わたしの言動と日々動く状況とは完全に一体となったのでした。ついに運動は成功し、その余波は千葉県全体におよび、我孫子市のみならず、大多数の市町村では丸刈り強制が撤廃されることになったのです。これについては、岩波書店から依頼され、月刊誌『世界』92年8月号に、運動のはじまりからおわりまでを35枚にまとめて書きましたので、ぜひ見てください(白樺教育館ホームページ) 5 我孫子丸刈り狂騒曲で見れます)。

     「オンブズマンと情報公開を考える会」 

     その後しばらくして、我孫子市に「情報公開条例」をつくらせる活動をしましたが、わたしは、「オンブズマンと情報公開を考える会」の会長として、何も分からぬまま本を買い込み、メンバーで学習会をし、訳知りの人に来てもらい話しを聞き、核心点をつかむよう努力しました。ところが、始めたばかりなのに朝日新聞千葉版の記者が取材に来て、わたしの話しを大きく取り上げた為に、総務省から「国の情報公開法制定の参考にしたいので」と電話があり、弱りました。内容よりも形が先立ってしまったのです。
     会のメンバーは、わたしの友人たちで、市議会議員の福嶋浩彦さん、市議で弁護士の中野高志さん・弁護士の佐藤典子さんなど6名でした。まず、我孫子市長に情報公開条例をつくるように要望書を出し、市は了承しましたので、条例案の中間報告書を出すように働きかけ、それが提示された時点で、担当個所を分担して問題点を洗い出し、わたしたちの会の案をつくり、市の担当者と話し合いをもちました。行政法については弁護士は知らないので(司法試験で行政法を選ぶ人はほぼ皆無、行政法は国家公務員試験では必需)一番知っていたのは、日々の仕事で行政法を使っている福嶋さんでした。とにかく夏の暑い日に連日みなで勉強し、まるでこどもの夏休みの自由研究のよう(笑)。大変でしたがよい思い出です。
     結果、決裁前の文書も情報公開の対象に含め、議会情報も含めるという千葉県初の我孫子市の情報公開条例が出来ましたが、市議会ではわずか一票差での可決でした。汗が出るやら肝が冷えるやら。 

    2022年 8月 24日
    武田 康弘 70歳 

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