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5.我孫子・丸刈り狂騒曲を振り返る
    あびこまるがりきょうそうきょく

 しばらく間があいてしまいました。今日はちょっと長いものをお届けします。

 最近、新聞、テレビをにぎわしている問題があります。
『おいお前、調子に乗るな。
 金一銭もやらんから覚えとけ!』

とある国会議員がNGO(非政府組織)を恫喝(どうかつ)した、 というアレです。
 これって典型的な【知・歴・財の所有による支配】ですね。ただし、こういう序列意識は何も政治という特別の場で発揮されるわけではないです。私たちの日常生活の中、会社や学校の中、家族間、友人間、はたまた市民グループの中にも見かけるものです。人間を不幸にするこの【知・歴・財の所有による支配】を断ち切るにはどうしていけばよいのか。そういう具体的な活動をちょっと紹介しましょう。

 今から10数年前のこと、ここ我孫子の地も管理教育の牙城といわれていたことがあります。
  当時その管理教育下にあった中学生は今はもう30代半ば。
『生きるっていうのは、こんなに辛(つら)いことなのか。』
彼等の何人かは、当時を思い返してこんな風に感慨深く語っていたことがあります。

 もちろん今はそんなことはありませんが、その変化は自然に起きたことではありません。誰かが具体的に活動した結果なのです。
 その経緯(いきさつ)は雑誌『世界』1992年8月号 岩波書店  に掲載(けいさい)されたことがあります。今日はその掲載文の紹介です。
 その本質的問題は今もって私たちの生き方に迫ってくるものがあります。露骨な管理教育はさすがに影をひそめているものの、受験主義はさほど変わっていません。知・歴・財による序列意識は今もその辺にとぐろを巻いているようです。
 そこのお父さん、お母さん、大丈夫ですか。
長いですけど、じっくりご覧になってもう一度考えてみましょう。


我孫子・丸刈り狂騒曲

― 発端(ほったん)から強制の廃止まで ―

雑誌「世界」
武田 康弘 著
校長は言った。
「あなたは日本が民主主義だと思っているのか?」
教育シンポジウム
1987年1月18日 教育シンポジウム
我孫子市民会館・大会議室
左側は当時のタケセン

目 次

1.はじめに - 子どもの思いからの出発
2.刑務所としての学校
3.たった一人の奮闘(ふんとう)から
4.教育長も変わる
5.ツヤ消しシステムの犠牲者
6.とうとう丸刈り強制は廃止に
7.おわりに


1.はじめに - 子どもの思いからの出発

 私は、17年間(1992年当時)、干葉県の我孫子市でいささか「反時代的な教育」に深い情熱を注いできた、小さな私塾の主宰(しゅさい)者です、その教育のキーワードは、意味と自立です。

 それがなんで「反時代的」なのか?
最近の教育事情にあまり詳しくない方はそう思われることでしょう。
  でも、残念ながら、この受験主義と画一的な教育の下では、<意味>をつかもうとするのは、高得点獲得のための障害であり、自分の意見を持つ<自立>の精神は、みなの和を乱す無用の長物にしかすぎません。まるで条件反射の訓練のごとくに、テスト問題の解法をパターン化して暗記させるというのが現代の学習の主流になっています。

 「形から入る」ということが、学校教育の現場でよく言われていますが、学習法、さらには生活全般にも「最適な様式」があるとする型の文化は、わが国の伝統のようです。
 しかし、はじめに「正解」を決めておいてそれにどれだけ近づいたか見るという教育は、言葉はきついかもしれませんが、本質的には<洗脳>にすぎません。
 ひとり一人の自立を生み育てることを不可能にします。そしてこの〈心の自立〉は、〈意味をつかむことのできる頭〉に支えられて始めて可能になります

 私は、ものごとの意味を子どもが自分の頭を使って考える能力を育てるために、今までいろいろな工夫をこらしてきましたが、基本的に求められることは、どんどん質問が出るような雰囲気の創造です。誰にでもあてはまる便利な「マニュアル」があるわけではありません。

 私の塾では、ふだんの授業の他にも、サイクリングで史跡めぐりをしたり、土曜の夜には大型の反射望遠鏡を用いて星見の会を開いたり、夏には伊豆七島でキャンプをしながらスノーケルダイビングを楽しんだり等の行事もしていますが、肝心なのは、それらをすること自体にあるのではなく、どういう考え方や態度で子どもに臨むのかということです。

 教育の絶対の出発点は、たとえ親や教師の目からはひどく異様なものに見えたとしても、子どもの思い(関心・欲望)を肯定することです。「こうあるべきだから、こうすべきだ」と言うと、それがどんなに「進歩的」な理念であろうと、必ず、子どもが自分の頭を使って考えることを阻害します。
  〈思い〉は、その人をその人たらしめている底板(そこいた)なのであり、それを認めないことは、その人間を否定することになってしまいます。そうなると、子どもが自分で「考える」ことを始めるための第一条件=プライド・ 矜持(きょうじ)つぶしてしまうことになるのです。

目次

教育シンポジウム
1987年1月18日 教育シンポジウム
我孫子市民会館・大会議室
ビデオを使って教育現場の実体を見る

2.刑務所としての学校

 本題に入りましょう。
千葉県は管理教育の東の横綱と呼ばれてきました。私の住む我孫子市でも、私たちの教育-改革運動が起こるまでは、中学生男子の丸刈り強制に象徴される画一主義一色に染めあげられていました。昼休みの時間に中学校を訪ねると、くすんだ色のジャージ姿でひと声も発せずに掃除をしている子供たちに出会います。これは「黙動(もくどう)」と呼ばれ、朝と昼の二回行われています。

 我孫子市に引っ越してきた女性弁護士の佐藤典子(さとうのりこ)さんは、数年前、街のミニコミ紙に次のように書きました。
 「初めて中学にいった時の印象は強烈でしたね、そろいのジャージの上下を着た丸坊主の少年たちが、草むしりや掃除をしていました。
 私は職業がら、全国各地の刑務所を見ています。応対に出られた先生に、思わず『刑務所そっくりですね』と言ってしまいました。
 息子は、始業式の前に泣く泣く丸刈りにしました。何だってこんな馬鹿げたことを強制されるのかと、実に腹立たしかったですね。
・・・・丸刈りという『形』を強制することによって、力に対する服従心をたたき込む。
・・・・・『管理』の立場から物を考える限り、学校も刑務所も同じなんだなあと 感じ入りました 。教師は、看守ではないはずなのにねえ。・・・・・」

 小学校の授業参観にいくと、教室の前に子供たちの描いた絵が飾ってあります。写生ですが、クラス全員の絵がみんな同じ(?)なのです。聞くところによると、色も構図も「県展の審査員の好み」に合わさせて描かせるのだそうです。子供の使いたい色は、禁止(!)です。商店主のあるお父さんは、どうにも腹に据(す)えかねて、後日抗議に行こうとしましたが、奥さんに止められてしまいました。

 第四小学校では、一日二回、三旗(日の丸・県旗・校旗)掲揚(けいよう)が行われます。校歌が流されている間、子供も居合わせた父母もみな無言のまま直立不動の姿勢をとらされます。戦時中の話ではなく、いまのことです。

 バスで遠足に行きます。バスに乗ってから降りるまで、子供たちは、すべて事前につくられたプログラム通りに行動させられます。レクリエーションも、何を何分間どの班がするか決まっています。

 ある校長は、私に自慢気(じまんげ)に言ったものです。
「うちの学校では個性を伸ばす教育をしている。何の歌やゲームをするのかを子供たちに自由に決めさせているのだから。」(!?)
 中学生は大多数が運動部に所属していますが、早朝と放課後の二回、毎日練習です。日曜も祭日も休めません。休みは一ケ月に一日、第三日曜日だけです。なんとこの日を「家庭の日」と呼ぶのです。ブラックユーモアの極(きわ)みです。

 まあ、こんな具合に挙げていったらきりがありません。臨機応変とか 当意即妙(とういそくみょう)という自在さの世界とは、正反対なので。暗くて固くて少しも楽しくありません。これはおそらく程度の差こそあれ、我孫子のみならず全国的な実態なのでしょう。

 「使える若者がいない」、ステレオタイプの「優等生」しか生産しない学校に、企業家たちの危機感も相当なものだと聞きます。管理教育のいきすぎに対する文部省の豹変ぶりは、国連の「子供の権利条約」の批准を政府が決定したことと共に、財界人のこうした危機意識にもよるのだと思われます。
 一般の企業家とは視点が異なるかもしれませんが、私の親友で、大手のコンピュータ・ソフト会社社長-佐野力は、自社での会社革命を行う一方(最近テレビなどで、犬も出勤する楽しく自由な会社としてよく紹介されますので、ご存じの方も多いと思います)、ここ数年間、あちこちで教育改革の必要性を訴えてきました。「根本的に考えることのできる人間、発想の転換のできる人間は、有名大学出にはいない。画一的な管理主義とペーパーテスト中心の受験主義の下では、『何が問題なのか』を考える力は全(まった)く育たない。受動的なコピー人間が『優秀』だとされている。会社のためではなく、個人として、人間として生きることを学ばせなければ、取り返しのつかない事態が起きる。自分や家族や地域を愛さない会社人間が、社会全体をダメにしてしまう。」――と。

目次
市民の集い
1988年1月の「市民の集い」で
企業人も個性をつぶす学校教育を批判。
佐野力さん(当時、日本IBM社員、
後に日本オラクル会長、現在白樺文学館オーナー)
 

3.たった一人の奮闘(ふんとう)から

 ナチス・ドイツと同じ「集団の美」の追求が合言葉となっていた我孫子の学校教育に、最初に真正面からぶつかって行ったのは、当時、中学三年生の綿貫(わたぬき)信一君です。
彼は、小学五年生のときからの私の教え子ですが、1984年3月、白山中学校卒業間近に、教師たちの考え方への批判と学校内部からの改革の必要性を訴える作文を書き、校長との一対一の話し合いを申し入れました。

  「上からの規則で縛(しば)りつけるのは、事なかれ主義です。教育とは、秩序を守るのではなく学ぶものです。長いものには巻かれるといった習慣は、全体主義に陥(おちい)る危険があります。わが母校白山中は、今度は進歩的学校として名を上げようではありませんか。」――と

 結局は、校長の代わりに教務主任が話すことになりましたが、その対応は極めて不誠実なものでした。

  「一日こんな作文なんか書いてるヒマがあったら街へ出てボランティアでもやったらどうだ。」

 これがその「教師」の第一声だったということです。綿貫君は、中一の時に、廊下を走ったという理由で顔面を殴られて鼓膜を破られたのですが、殴った教師とは異なり、問題をどこまでも話し合いによって解決しようと努め、卒業後もねばり強く、六回も中学校を訪ねました。
  ところが、六度目になんとこの校長の代理の教務主任は職員室から逃げ出してしまったのです。これでは、「教師、否人間失格者」と書かれても何も言えないはずです。

 まだあどけなさの残る教え子の、このたった一人の奮闘は、私の胸を打ちました。いつかは立ち上がらねばならぬと思いました。
「自己保身のために見て見ぬふりをする大人ばかりでは未来は真っ暗だ。愛や正義や勇気を言葉で教えることはできない、身をもって示すしかないはずだ。」
 いまとなっては恥ずかしいのですが、正直こんなせっぱつまった思いでした。

 私の塾に通う子どもの父母やその周囲の人々との〈対語〉は、その時(1984年)から始まりました。子どもたちから聞く体罰や管理の実態について語り、新しい考え方の必要性を訴えて歩いたのです。
 こうした活動をしてゆく中で、しばらくして私は、私自身を含めて進歩的・革新的と言われる人々が、救い難(がた)いほどの〈序列意識〉に囚(とら)われているのに気づかされました、話し合いによって、互いに分かり合い、変わり合うというのではなく、一方的な他者批判になりがちな従来の運動のあり方を、根本的に変えなければダメだと思いました。

 2年後の1986年6月に私と友人7名を代表会員とする「我孫子児童教育研究会」をつくり、本格的な運動を始めたのですが、これが〈自己省察する住民運動〉という奇妙なやりかたで教育革命を進めることになったのは、背後にこんな思いがあったからです。

 イデオロギーによる裁断を排して、一人ひとりの心の思いから出発する運動=保守と革新と新・旧住民(元々我孫子に住んでいた商店主などの住民と、サラリーマンなど我孫子に家を買って移り住んできた住民)が一緒になった運動は、こうして始まりましたが、私は、事情通の人幾人かに忠告を受けました、
  「どんなに頑張ったところで何も変わらないよ。とくに子どもたちが嫌がっている丸刈り問題はどうにもならないさ。昔からここはそういう土地なんだから。」

 たしかに、校長たちや教育長と語し合い、私たちに出来る協力を約束したり幾つかの対案を示しましたが、なかなか通じません、創意工夫していろいろな形で〈対話〉を続けましたが、壁の厚さを感じるばかりです。会員の中には、
「これはとても無理だよ」―という人も出てきます。

 けれども半年ほどすると、少しずつ成果も見えてきました。部活動の早朝練習の始まりが15分ほど遅くなったり、体罰が減ったりしたのです。これには地元の新聞記者の協力も大きかったのですが、しかし同時に「実力者」と言われる自民党県議の攻撃も呼び寄せてしまいました。市内全域に配付されている『さきがけ』という宣伝紙に、「学校に集団で圧力をかける外部団体」と紹介されたのが始まりで、その後何度も政治主義的な記事を書かれました。

 日(いわ)
「部外者の扇動」
「マスコミヘの売名行為」
「無責任な人たち」
・・・・・・。

 さらに、私たちとの話し合いの末、丸刈り強制についての考えを変え始めた教育長にも矛先(ほこさき)は向けられ、「学校現場を混乱させた」という非難記事が載せられたりもしました。
 この「政治家」や、学校教師とPTA幹部の多数派が、集団主義的な教育をよしとする論理は次のようなものでした。

 「丸刈りにしておけば繁華街にいけないから非行が防げる。
髪型も服装も全員同じに揃えることが中学生らしくてよい。
子どもは街路樹と同じで管理することが大切。
部活動で長時間学校に縛っておけば悪いことをする暇がなくなる。
教育とは一人の例外もつくらないことなのだから。」

 〈人間〉と〈物=ロボット〉とが逆の存在であるという原事実さえわきまえないこうした暴論にはあきれ果てますが、こちらには対抗する手段がありません。ワープロとコピーは大きな武器ではありますが、四万世帯に文書を配布するわけにはいきません。

  そのとき友人で代表会員のひとり―リベラルな保守派の弁護士中野高志(なかのたかし)―は、管理教育の是正を公約にして市議選に立候補することを決め(当選・現在は二期目)、同時にミニコミ紙『リフレッシュあびこ』を発行、続いて市民派市議で社会党のエース福島浩彦(ふくしまひろひこ、2002年3月現在我孫子市長)も、『緑と市民自治』を発行。連続的に教育問題を特集して大きな反響を得ることになりました。

 寄付金やはげましの手紙が次々と送られてきました。こうした様子を知って、丸刈りについて書いた前記の佐藤さんは、その文の最後を次のように締めくくったのです。

 「でも私は、我孫子が好きになりました。それは『丸刈り強制反対』運動が、保革のわくを越えた協力体制で行われているのを見たからです。さまざまな職業や立場のちがう、いい年をしたおじさん、おばさんが、真剣に教育問題を語し合う街、そういう我孫子が大好きです。」

目次


我孫子児童教育研究会
1986年8月の「我孫子児童教育研究会・会合」(武田宅)

4.教育長も変わる

 私たちの画一的な管理教育の改革をめざす活動は、教育長・校長・担任との話し合い、定期的な学習会・シンポジュウム・市民討論会と精力的に進められましたが、しだいに改革の目標は、その象徴である丸刈り強制の撤廃と体罰の禁止を求める運動へと集約されていきました。
この時点では、すでに「教育研究会」の会員も50名ほどになっていました。

 1987年12月に、息子の通う小学校のPTAで父母への丸刈りアンケートをとったことは、決定的な力となりましたが、このとき校長はPTAの役員に対して次のように脅迫しました。

「こんなアンケートをとったら大変ですよ。
あなたたちの身に何が起こっても知りませんよ。
なに民主主義?
若い人はすぐそういうことを言うが、日本が民主主義のはずがないでしょう。」

けだし名(迷)言!です。

 アンケートの実施にこぎつけるまでの長く壮絶な闘い?は、いま思い出しても目まいがしますが、結果を集計しようと役員4人で学校に行った時には更に驚きです。なんと集められた用紙は職員室の金庫の中に封印されていたのです。

「或る父親がアンケートに反対している。一人でも反対者がいるうちはアンケート結果を見せるわけにはいかない。」

 校長の言葉と態度に、私は「役人」と呼ばれる人たちの「自己保身」の凄(すご)さをしみじみと感じました。この3、4年後、東欧とソ連の崩壊(ほうかい)過程をテレビで見ましたが、そこでの官僚たちの言葉とそっくりです。

 ここまで来るだけでも、私たちはすでに相当に消耗していました。
  金庫のカギは教頭が保管しています。このままでは、アンケートは無かったことにされてしまいます。激しいやりとりが続き、 恐怖感から母親の役員の一人は泣き出してしまいました。
最後に、「すべての責任は私が持つ、むりやり持っていかれたことにしても結構だ」という私の発言でようやく激論に幕がおりました。

 集計の結果は、丸刈り強制反対者86パーセント(アンケート対象者は六年生の保護者全員162名、無記名、回収率92パーセント)。しかも、意見欄には、中学校の管理や校則への強い不満がピッシリと書き込まれています。
  この結果には、さすがに教育委員会も強い衝撃を受けたようでした。

 同じ12月、我孫子市議会本会議場では、中野、福島両議員が、体罰問題と絡(から)めながら丸刈り強制問題を追及。
 飯合大助(めしあいだいすけ)教育長は、
「体罰は管理教育と関連した問題であり、そのもとは頭髪(丸刈り)にある」と答弁。
「私は、いままで丸刈り強制についていろいろと言いわけをしてきたが、管理教育とかの問題も総合的に考えると、自由にしたほうがよいと思う。一昨日の校長会では、6人の校長さんすべてが『頭髪を自由にしたら学校の中がメチャクチャになる』と言って反対した。たしかに校則の裁量権は校長にあるが、子供や父母の機運もあるし国際性の問題でもあり、なんとか解決してゆきたい。ご提案の通りに、市の教育広報紙に自分の考えをはっきり示してゆく」(要旨)と言明しました。
  一年半に及ぶ運動と情意(じょうい)を尽(つ)くした話し合いが、教育長を大きく変えた劇的な瞬間でした。

 このとき私自身は「状況」と完全に一体でした。一日一日の言動が状況を突き動かし、その変化がまた新たな言動を生みだしてゆきます。暮れも正月もありません。運動がピークに達したのは、年が明けた1988年1月17日の市民集会です。

「先生、お父さん、ぼうず頭になりますか?子どもも同じ人間です、型にはまった鯛焼(たいや)きくんではありません。」

 中学生から年配者まで140名、市議も保守系から共産党まで各党派すべてが参加したこの会で、4時間におよぶ討論の末、新学期から丸刈り強制の廃止を求める意見書を採択し、各学校長に郵送することを決定。この集会の模様は、テレビと新聞によって大きく報じられました。

 私たちが六校に郵送した意見書についての回答は、みな「4月からの強制の廃止はできない」というものでした。子どもや父母の多くとそれに教育長までが反対しているにも関わらず、「市民運動やマスコミの力には屈しない」と言って頑張る校長たちには、ホトホトあきれ果てます。時代の新たな課題を自覚しようとしない彼らが守ろうとしているものが、ただ<体面>だけだということは、誰の目にも明らかです。これには、私たちよりも取材に来ていたテレビ局のスタッフたちの方がアタマにきていました。

 大勢は決していたのですが、学校は、メンツという最後の砦(とりで)にたてこもって必死の抵抗をこころみます。
  2月末の小学6年生を対象とする中学入学にあたっての説明会でも、父母からの厳しい質問が浴びせられましたが、中学校側はその態度を少しも変えようとはしません。
  運動としては、もうこれ以上は進めない地点にまで来ています。日本テレビが、いらだってキツい特番「我孫子・丸刈り―その後」を放映します。街全体に緊迫した異様なムードが漂(ただよ)い、 私の小さな私塾の生徒は、あっというまに半数以下になりました。もとより覚悟の上とはいえ、さすがに兵糧攻(ひょうろうぜ)めはこたえます。

 しかし、この時点ではもう、学校関係者はみな、強制撤廃は時間の問題だと読んでいました。息子の通う小学校の、あの脅迫の校長も強制反対派に転向して、私に味方しだします。
  突然、「武田さんのようなリッパな人はいない」と言われたのには本当にビックリです。
 このころには、連日のように「校則」という二文字が新聞・テレビを賑(にぎ)わすようになっていました。管理教育に対する市民運動は、我孫子、岡崎、神戸などをはじめ全国各地で大きな広がりを見せ、当時浪人中だった林たけし君の書いた「ふざけるな!校則』(こまくさ出版)のパート1は、ベストセラーとなっていました。それまで態度をはっきりさせなかった文部省も、春休みに入った3月26日、参院の青島幸男議員の質問に「管理主義的な校則を見直すように指導してゆきたい」と答えています。

目次
市民の集い
1988年1月の「市民の集い」で
丸刈り強制反対運動のピーク(参加市民140名)

5.ツヤ消しシステムの犠牲者

 こうした状況の中で、冬休みから髪を伸ばし始めた白山中の二年生・岡野吐夢(おかのとむ)くんは、「校則」違反の罪で連日何人もの教師たちに、入れ代わり立ち代わり責められていました。
「岡野君が髪を伸ばしたために学校全体の秩序が乱されてしまった」と言われ、朝自習の時間から始まり、昼休み、放課後、そして教師によっては授業時間全部をつぶしての説教です。
  見ていた友人たちが「あれだけ厳しくやられたら頭がおかしくなってしまうよ」と言うほどの凄まじさです、それでも強い意志を持つ彼は屈しません。
  「人権を侵害し、憲法に反する校則は、規則としての効力をもたない」と。
  学校側は両親との語し合いの席上、「頭髪の自由を認める方向で生徒会で検討させる」と、しぶしぶながら約束。その約束を条件に岡野君は髪を切ったのです。

 日本の学校は、旧・社会主義国の官僚組織とよく似ています。予(あらかじ)め決定されている枠組みは強固で、個人の自発性は、発揮される以前にほとんど消去されてしまいます。そして、この見えない抑え込みのシステムからはみ出してしまった者には、残酷な仕打ちが待っています。
  基準値以上の輝ける個人・目立つ存在を保守的な組織は忌(い)み嫌います、輝ける個人は、輝いたままでは生きられないのです。
  ツヤは消さなくてはなりません。

 こうした個人消去システムの下では、集団を一つにする目標が必要です。言うまでもなくその最大のものが<受験>(受験勉強)ですが、その犠牲者となったのが、新興住宅地の中にある市内で最も受験競争の激しい久寺家(くじけ)中学校に通っていたK・Hさんです。

 元教師の母親と大学院卒の国家公務員の父親は共に、受験価値にこだわる人でした。彼女は中二の一学期までトップクラスの成績でしたが、個人面談での母親のグチに近い一言が担任の態度を急変させ、クラスの皆の前で「Hは学校ではいい子面(づら)をしているが、家での生活態度はひどいものらしい」などと書われ、そうしたことが元で成績は下落します。
  学年主任で「受験の神様」とも言われた担任のK女教諭のイジメは、成績の下落とともにエスカレートしていきます。それは学校内にとどまらず、仲のよい友達の家に「問題のある子だからつき合わないように」と電話をするまでになります。
  彼女はついに心痛から登校拒否を起こしますが、車で迎えに来る二人の教師に両腕を抱えられて学校に連れて行かれ、体罰を含む指導が行われました。勉強が手につかなくなった彼女にとって、受験価値から解放してくれる人が周囲にいなかったことは、まさに「出口なし」の状況でした。やがて心身症から入院するまでになり、人生のコースは大きく狂ってしまいます。
 痛ましいことですが、現在22蔵の彼女は、今なお毎晩のように、両親の言動や教師の嘲笑(ちょうしょう)とその後に続くクラスメイトの爆笑に頭の中を占領されてとび起き、しばしば大声をあげてしまうそうです。
(この原稿を書いている今日5月23日に、彼女は睡眠薬40錠を飲み自殺をはかりましたが、幸いにも未遂に終わりました、又つい最近もこの地区・我孫子市つくし野で、やはり受験価値にひどくこだわる両親に成績の悪化を責められた高校生が、高層マンションの自室から飛び降り自殺をしています。)

目次

市民の集い
1988年1月の「市民の集い」で
丸刈り強制廃止を訴える白山中学の卒業生
左側がこの問題を最初に取り上げ、一人で立ち向かっていった綿貫君
その右側は現在も「哲学の会」に参加している管君
右側は日本テレビスタッフ

6.とうとう丸刈り強制は廃止に

 話を戻しましょう。岡野吐夢君の本当の苦闘が始まったのは、1988年4月、春休みが明け、中三になってからです。
  学校側は一応約束通り、頭髪の「きまり審議会」を作り、その委員長に彼を据(す)えました。
  ところが、それまでずっと生徒からの批判的な発言を封じるヤラセの生徒会運営を続けてきたために、生徒に自分の頭で考える能力がありません、話し合いがもたれても、ほとんど意見が出ないのです。
  当然の話です。まれに、はみ出して反対意見を主張する子には、別室での徹底した「指導」が行われてきたのですから、その恐怖の指導の実態が明るみにされると、教師は今度は、
「人権君、今日は何か言わないのかい」
という嘲(あざけ)りによる発言封じです。

 頭髪の「きまり審議会」は、生徒会長の諮問機関(しもんきかん)と位置づけられ、審議された内容を中央委員会にかけた後、「生徒会長が受けて、校長先生のところへお願いに行くという形で活動する」というものです。「市民運動に負けて変えたのではない」という「形」を整えるには、それ相当のリッパな文書を作らなければなりません。とにかく学校のメンツを守ることが至上命令なのです。

 岡野君は、12月までほば毎日、放課後、生徒会室にかんづめにされました。文書が外部に漏れるおそれがあるということで、家に持ち帰って作業することは禁じられ、生徒会室には退室と同時にカギが掛けられました。
  「病気」としか言いようがありません。学校の意に沿った答申書は12月に出来上りましたが、なんと最後の意地悪校長の判断で、自由化は三学期ではなく4月の新学期からとされ、彼ら中三生にはついに頭髪の自由は訪れなかったのです。
  子どもたちの断腸の思いは怒りに変わり、何十人もの中三生が冬休みからそのまま髪を伸ばしつづけるという実力行使に出ましたが、もはや学校には、これを押さえる力はありませんでした。

 正義感にあふれる涙もろい元判事の岩本弁護士は、だめ押しとして、朝日新聞論壇(ろんだん)(1989.2.1)に、
「丸刈り強制の校則は〈違憲(いけん)〉」という判決文?を書きました。
  1989年の新学期から、ついに六校中四校で丸刈り強制は廃止(現在は六校全部が自由化されています)。
  途中から考え方を変えた飯合教育長は、校長たちの激しい抵抗を乗り切れたことがよほどうれしかったのでしょう。

「いろいろとご迷惑をおかけしましたが、ようやく自由化にこぎつけることができました」
と私の家に電話をかけてきました。
私も思わず
「大変でしたね。ご苦労様でした。」と言っていました。

 4月16日(1989年)に長かった運動のまとめの集会を市民会館で開き、岡野君には整髪料とドライヤーのプレゼント。
  その彼も今年はもう大学一年生。たった一人で教務主任との六回の話し合いを敢行して改革の口火を切った綿貫君は、哲学科を卒業して社会人として活躍中。早いものです。
  運動を振り返ってあるお母さんは、次のように書きました。
 「この運動を通して、生徒も父母も、自分の意見を発言し主張することによって、責任も覚え、まわりの人も変わっていくことを知りました。こんな生きた勉強はなかったと思います。」

 私たちの民主主義の自己学習は、なかなかスリリングで、魅力に富み、しかもとても有益だったと思います。地縁や血縁とは違う〈市民的な共同意識〉を実感できたことは、大きな収穫でした。この奇妙な自己省察する市民運動は、この後また 思わぬ発展をみせるのですが、本題とはズレるので残念ながらカットです。

目次

岩本弁護士
1989年4月16日 丸刈り問題・最後の市民集会
(我孫子市民会館・大会議室)
駄目押しの判決文?を朝日新聞論壇に書いた
元判事の岩本弁護士

7.おわりに

 最後に思想的な問題について少し書きます。

 私たちの立場は、日本型の集団的民主主義でも社会主義(マルクス主義)でもなく、〈リベラルな民主主義〉でした。

 異なる〈思い〉の人々が、本当に対等に話し合って物事を決めてゆくには、「こうあるべきだ」というイデオロギー化された自我からではなく、各人のありのままの主観から始める以外にはないでしょう。したがって民主主義の思想的な基盤は、主観(心の原理)からの出発を徹底化させた哲学でなければ困ります。

 それが何かと言えば、ソクラテスの問答的思考法であり、フッサールの近代主義(客観主義)からの根本的な発想の転換(・現象学的還元)です。

 「現実」という言葉を何百回繰り返してみても、現実に届くはずはありません。重要なことは、さまざまな日々の経験を「私」に根づかせる=体験化させること。そして、その自分の体験を省察しながら考え・語り合うこと。その営みによって物事を決めてゆくことです。これは誰にでもできることです。本当に腑(ふ)に落ちることがないまま、何かしらの「権威」に従う悪習を断てばよいのです。間接的な知(情報知)ばかりを肥大化させられた人人間の判断は、生きた現実にとっての意味を持ちません。

 「国家」の下に「地域」があるのではなく、原理上、より高い品位をもつのは、直接の生活世界としての地域です。したがって地域に根差して生きている人間が、地域の問題を深く考えて変えてゆくのは、最も有効で価値あることですが、しかしそれは多分に生活の全体を丸ごと危機に落とし入れるおそれも伴います。
  「日本型(集団型)民主主義」が「自由民主主義」を阻害してきたために、集団の心理的な圧力に負けずに奮闘したり、そうしている人を本気で支援したりする「自立した市民」は、残念ながらまだあまりに少数だからです。

  もし、集団主義を改めて、わが国に「自由民主主義」を根づかせようとするのであれば、大胆な意見がも知れませんが、企業等による援助も必要になるでしょう。官僚主義に染め上げられている「官」に期待することは絶望的だからです。もしリベラルな企業が、教育・環境・福祉の新しい型の市民運動を助けるようになれば、運動は飛躍的な発展の可能性を持ちますし、それはまた企業サイドにとっても、音楽や美術への援助をはるかに上回る〈文化〉育成への貢献という栄誉(ステイタス)をもたらすはずです。

 この世紀末、文明の大きな転換点に直面して、私たちは従来の「常識」を元から変えざるをえない必要に迫られているようです。アメリカでは、市民運動の手法と考え方(柔らかなネットワーク・新しい人間主義)を、企業経営にも取り入れる必要が叫ばれていると言われますし、すでに日本でも前記の佐野力がそれを実践しています。市民運動とは今までの「政治」の概念を越えたもの、より高い品位をもつ「文化」なのです。

目次

(1992年 たけだ・やすひろ 我孫子児童教室/ソクラテス教室主宰)


2002年3月6日 古林 治

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