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22.柳兼子(やなぎかねこ)をたたえて
   【お話と歌曲の夕べ】

 お知らせにありますように、柳兼子(やなぎかねこ)をたたえて  【お話と歌曲の夕べ】を2002年12月28日に開催します。

 お話をしていただく松橋桂子さんからレジュメが届きましたので、ご案内しましょう。

2002年12月17日  古林 治


「柳兼子(やなぎかねこ)と我孫子(あびこ)と」 要旨

松橋桂子(まつはしけいこ)2002年12月

我孫子に於ける柳兼子の受容経過(1977〜2002)

1.

『朝日新聞』千葉版(1977・4)…
柳兼子は、白樺派の文人で民芸運動の創始者柳宗悦(やなぎむねよし)の妻であり、アルト歌手でもある」と記述。

2.

中央学院大学オープンカレッジ講座(1990・10)で、品田制子(しなだせいこ)講師による「柳田国男・白樺派と女性史…武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)夫人房子(ふさこ)と柳宗悦夫人兼子を中心に…」。

3.

「手賀沼を愛した文人展…白樺派と楚人冠(そじんかん・杉村楚人冠)たち…」(1992・10)で、柳兼子のLPレコードや演奏会のポスターが展示され、パンフレットに松橋桂子の執筆による「柳兼子…芸術家として妻として母として」を掲載。

4.

「白樺文学館」創設時に、全コンセプト作成の武田 康弘・初代白樺文学館館長は、当初武者小路実篤志賀直哉(しがなおや)・柳宗悦・バーナード・リーチの四人を柱に据えていたが、兼子の業績を知り、急遽柳兼子を加え五人を柱として開館(2001・2)。

 5.

武田康弘は、より純粋に白樺スピリットを生かす教育と学芸を実践するために、「白樺文学館」と袂(たもと)を分かち「白樺教育館」を設立(2002・2)し、現在に至る。

柳兼子は、「日本の声楽の母」「声楽界の至宝」と称(たた)えられ、社会的にも認められた存在だった。その九十二年間の生涯の中から“我孫子時代"を中心に話を進めたい。

1.

『白樺』創刊(1910・4)の数日前に、中島兼子は柳宗悦に会い、長い交際を経て結婚(1914・2・4)、その7か月後に我孫子町南作(天神山)の「三樹荘(さんじゅそう)」に転居。

2.

帝国劇場で山田耕筰(やまだこうさく)指揮による80名のオーケストラをバックに歌劇『カルメン』中の「ハバネラ」を独唱(1914・12)。長男の宗理(むねみち)誕生(1915・6・29)。

3.

帝劇オペラ『古城の鐘』は、兼子の唯一のオペラ出演(1916・5)。次男の宗玄(むねもと)誕生 (1917・2・18)直後に、実家の中島鉄工場が倒産し、宗悦も父からの遺産を失う。

4.

志賀直哉夫妻、我孫子町雁明(がんみょう)に転居(1915・9)。武者小路実篤夫妻、我孫子町根戸に転居(1916・12)。「三樹荘」の庭にリーチの我孫子釜と仕事場完成(1917・3)。

5.

白樺同人が「公共白樺美術館」設立運動を開始し(1917・10)、その資金集めの為に「柳兼子独唱会」を各地で開催、これが日本の声楽リサイタルの嚆矢(こうし)となる。

6.

「白樺十周年記念・柳兼子独唱会」は急病で参加できず、続く二回の「柳兼子独唱会」(1919・10/20・7)で、リート歌手としてのスタンスを明確に打ち出す。

7.

“個性"尊重の「白樺派」と“個性教育"を志す「信州白樺派」との交流。武者小路の「新しき村」が宮崎県に誕生(18・11)。リーチの仕事場焼失(1919・5)。

8.

朝鮮で抗日独立運動が起こり(1919・3・1)、兼子は日本側の厳しい弾圧に抗議する宗悦と共に、“朝鮮に捧げる音楽会"を朝鮮と日本各地で開催。

9.

宗悦が「朝鮮民族美術館」の設立運動を開始し(1920・12)、その募金の為に夫妻で演奏会ツアーの計画を立てる、我孫子から東京都赤坂区へ転居(1921・4〉。

10.

二十世紀に生きた柳兼子の、二十一世紀へ託すメッセージ。


嚆矢(こうし)
(1)〔「嚆」は叫ぶ意〕かぶら矢。
(2)〔昔、中国で合戦の初めに、かぶら矢を敵陣に向けて射かけたことから〕物事のはじめ。最初。
「その説を唱えたのは彼をもって―とする」


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