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《12/23金さん・武田さんを軸にした白樺討論会》について  9
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「白樺思想と大学の公共哲学」

荒井 達夫(公務員・52才)

荒井

白樺教育館では、金泰昌さん、山脇直司さん、稲垣久和さん、の3人の大学人との座談会や討論会が開催され、私はそのほとんどすべてに参加してきました。それらを通じて、私は、白樺教育館で行われている哲学の実践と大学の公共哲学には本質的・根本的な違いがあることを知りました。
 例えば、東京大学出版会のシリーズ「公共哲学」では、あたかも「公・私・公共三元論」が公共哲学の原理のように書かれていますが、民主制社会において、民の支持しない官=「公」を想定するのは、原理論的には成立しないはずです。現実問題として「官」がイコール「公」であるかのような事態が続いてきたことは事実だとしても、それは原理の問題ではないと考えます。「二元論的発想ではダメだ。三元論的発想にならなければ問題は解決しない。」という言い方は、見方・方法を哲学の原理にしてしまっているように聞こえます。これでは、多くの人の納得が得られず、結局、大学人が一般人を啓蒙するという時代遅れの哲学運動にしかならないはずです。
 私は武田康弘さんが提唱する民知としての白樺哲学を学ぶことによって、大学の哲学の大きな欠陥は、書物からの哲学的知識の吸収ばかりで、生活上の現実に即して個々具体の問題を生活者の立場からていねいに考えるという作業がないところにある、と考えるに至りました。
 ただし、この点は、金さんと一般の大学人の方々とでは、まったく異なるように思われます。金さんの場合は、ご自身の強烈な実体験に基づいて哲学論を展開されており、その並はずれた説得力の強さは「公・私・公共三元論」という理論などではなく、金さん個人の人間的魅力、その存在そのものから出てくるように思われました。
 なお、金さんは、12月23日の討論会で、三元論は公共哲学の原理ではなく「用」=現実運動上の働きの理論である、と説明されました。

また、民主社会における公共哲学は「民から開く」もの以外にありえませんが、その点でも大学中心で行われている公共哲学には問題があると考えています。「民から開く」という視点は、日本社会の歴史と現状を考えれば、いくら強調しても強調しすぎることはないと言えるほどに重要ですが、大学の公共哲学では、その点の認識がまだ非常に弱いと思います。なぜなら「民の公共」と言うだけで、それが現実具体的にどういうことなのか、極めて不十分な説明しかされていないからです。また、どうしたら「民の公共」が実現するのか、その可能性を広げ、現実のものにするためにはどうしたらよいかについては、ほとんど説明がないという状況です。
 金さんが強調する「対話」(対話する・共労する・開新する)の重要性は、当然のことであり賛成ですが、では、なぜそれが今まで日本社会ではできなかったのか、どうすればできるようになるのか、そのために必要な哲学の原理は何か、を明確にする必要があると思います。

この点、白樺思想は大学の公共哲学とまったく異なります。
思想の原点を日々生きる生身の人間、生活者であることに求め、個々人がすべて異なる欲望存在であることを真正面から正直に認める。このことの深い自覚が他者に対する配慮と尊重を生みだし、そこから自ずと公共性が開かれていく。一人一人が、何より主観を大切にして、よき人生とは何か、よりよい社会とはどのようなものかと問い、自由で対等な対話を生活の中で日々実践するところに「民から開く公共」が始まる。原点を個々人のありのままの主観に置き、それを互いに鍛え合う自由対話に依拠するというのは市民社会の原理であり、世界に通用する普遍性を持つ思想だ。個々人の実存から発する「民から開く公共」は必然的に地球的規模の公共につながる。
 これは、武田さんから学んだ私なりの白樺思想の理解ですが、ここには「民の公共」の意味とそれを実現するための方策について、基本となる考え方が簡明に示されています。ふつうの人なら誰でも理解可能で、「そうなんだよな」と腑に落ちる感覚を持って実践することができる、まさに哲学の原理であると思います。一般市民において「異」を前提とする「対話」は、このような思想に基づかなければ成立しないでしょう。討論会での金さんの発言も、私が理解する白樺思想とその芯はほとんど重なるものだと感じました。
 「民から開く」という意味で言えば、大学人中心の公共哲学より市民の集まりである白樺の思想の方がはるかに優れているというのが私の実感です。また、市民が求める哲学(人生や社会のありようを深く問う哲学)が白樺の方にあるのは事柄の性質上当然であり、これは、もはや否定しようのない事実だと思います。もともと哲学も公共も、ふつうの市民の生活世界から出てくるものであり、そうである限り、大学人中心の哲学・公共哲学はその存在意義を根本から問い直す必要に迫られているように思えてなりません。

ところで、今日、公共哲学は特に公務部門において注目されつつあるようです。しかし、私は、それを大学人中心の公共哲学に求めることに強く批判的です。全体の奉仕者(憲法15条)である公務員こそ公共哲学を身につけておくべきことは間違いありませんが、そもそも「民から開く」という哲学が十分に展開されていない状況で、大学教師が公務員に「公共とは何か」を教えることは甚だしい矛盾に他ならないからです。また、公務員が「公・私・公共三元論」を哲学的原理のように捉え、それを知識として覚えるだけで、その意味や働きについて深く考えることをしなければ、形だけの「公共」となり、タウンミーティングの「やらせ質問」のような公共性に反する有害な結果を招くおそれがあるでしょう。白樺のような対等な対話・討論を生み出す哲学を背後にしっかり持たなければ、対話・討論は形だけのものにしかならないはずです。
 大学の公共哲学が公務部門において真に有用なものとなるためには、民から開く公共哲学の原理である白樺の思想を土台に、それを作り直す必要があると考えています。そのためには、大学教師も、まず一市民、生活者であるとの深い自覚の下に、その立場で思考し行動する必要がある、と自戒も込めてそう思います。それが実現すれば、大学の公共哲学は、民主社会の基礎となる市民の日々の哲学実践に対し、その哲学史や哲学説の高度な専門的知識を活かし、側面援助が可能になります。まさに本来の「哲学する」ことが実現するのではないかと思います。一人でも多くの大学人の皆さんが、一日も早くこのことを理解されるよう願っているところです。

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