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白樺文学館開館まで続いた『開館顛末記』は終わりましたが、開館後も面白い話題、どうしても知って欲しいことなど、いろいろ出てくると思いますので、『白樺だより』という形でときどき不定期ながら掲載していきたいと思います.
というわけで今回はその最初のお便りです.
1. 三樹荘(旧柳宗悦邸)訪問

村山邸(旧柳宗悦邸)
庭から見た村山邸
左奥に小高い丘があり、そこに
リーチの登り窯があった.
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2001年3月26日(月)村山邸にお邪魔しました。
顛末記でもちょこっとだけ触れましたが、ここは旧柳宗悦(むねよし)邸、またの名を三樹荘といいます。
白樺文学館から300メートル程でしょうか。(文学館の地図を参照してください.)
柳の叔父(おじ)で近代柔道の創始者・講道館の創設者である嘉納治五郎(かのうじごろう)は、1911年に我孫子に別荘を建てました。彼はこの地に小学校から大学までの理想の私立学園を創ろうと考えたのでした。しかし、残念なことに文部省の反対と資金難から計画は頓挫してしまうのです。
一方、大恋愛の末に中島兼子と結婚した柳宗悦は、この叔父の誘いで我孫子に移り住んだわけです。
この場所で柳とリーチは熱い激論を交わしつづけ、後に生涯最良の時代であったとリーチに言わしめました。
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家の方から覗く庭の風景です.
見事な椎の木です.木の向こう側が手賀沼になります.
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ちなみに三樹荘のいわれはご覧のとおり、見事な3本の椎(しい)の木によります。
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下から見上げた小高い丘.
ここにリーチの登り窯があった.
ちなみにこの頂上が我孫子市で最も標高の高いところだそうな.
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庭の一角にある小高い丘のところにリーチの登り窯がありました。
火災で焼けてリーチは失意のどん底にあったといわれています。焼け跡には今でも焼き物の破片が出ることがあるそうです。学芸員の桜井さんがかけらを一つ掘り当てて狂喜していました。
『ウワーッ!リーチの壺のかけらだー!』
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離れのあった場所から手賀沼を覗く.
三樹のこずえの間から手賀大橋が見える.
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庭の手賀沼側にあった離れでは、柳兼子が毎朝ピアノを弾いたといわれています。
離れの直下まで手賀沼であったといいますから、兼子のピアノの音色が手賀沼中に響き渡ったといわれるのもなるほどというところです。
当時の美しい手賀沼に響き渡る兼子のピアノの音が今でも聞こえてきそうです。
ここから志賀直哉邸まではほんのちょっと。この家から柳は手賀沼に下り、小船に乗って、志賀直哉邸近くまでこいで行き、そして小船の上から
『おーい! しがぁ〜! いるかぁ〜!』
そんな毎日であったそうな。
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こんな話を庭の一角にある庵でお茶を飲みながら聞かせてもらいました。
もちろん、説明は主である村山さんです。 知人の元毎日新聞記者からもらったというアルバムを見せて熱心に説明する村山さんは本当にこの三樹荘に愛着を持っているのですね。

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最後に、そのアルバムから取っておきの写真をご紹介しましょう.村山さんのご好意で、撮らせて頂いたものです.

三樹の一本の枝に座る志賀直哉.
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その枝で、これは今.
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武者小路実篤と語らう子供を抱く柳宗悦
(武者小路邸)
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今回はこれまで。次回は旧武者小路邸をご紹介できるのではないかと思います。
請うご期待。
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2001年4月8日 古林 治
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