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15.雑誌『白樺』を読む 1.

 このコーナーでは、私自身が『白樺』を読みながら、新しい発見や楽しさ…心の琴線(きんせん)に触れたことなど、お伝えしていこうと思っています。
書いてゆくのに時間がかかってしまうかもしれませんが、気長にお付き合いいただければ幸いです。 

白樺教育館学芸員 桜井麻紀子
 

『白樺』を読むまえに… 

 『白樺』は、1910年に創刊された月刊同人誌(商業誌ではく、自分たちでお金を出し合って作った雑誌)です。1923年に関東大震災によって終刊になるまで、計160号が刊行されました。
 同人は、 柳宗悦(やなぎむねよし)志賀直哉(しがなおや)武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)、有島兄弟、正親町公和(おおぎまちきんかず)、郡虎彦(こおりとらひこ)、木下利玄(きのしたりげん)、児島喜久雄(こじまきくお)…など、学習院OBで結成。『白樺』創刊前から、それぞれ回覧雑誌を作っていた3つのグループが、互いに批評しあううちに一つにまとまったのです。
 彼らはご存知のとおり、家がお金持ち、お公家さん、貴族など、やはりいいとこのボンボンたちでした。そして当時柳21歳、志賀27歳、武者小路25歳…と皆若者(一番年上の有島武郎(ありしまたけお)は客分で別格として)です。さらに柳以外のメンバーは、おおむね学習院では落ちこぼれでした。
 こう書くとかなり頼りなげな感じがしてしまいますが・・・ もちろん実はそうではなくて、彼らは、学校の勉強ではなく、自分たちのやりたいことに熱中していたのです。そしてただの点取り虫を軽蔑(けいべつ)していました。

第三巻第十二号

雑誌『白樺』第三巻第十二号 表紙絵
1912(大正元)年12月発行

 さて・・・、『白樺』…それは、どんな雑誌なのでしょうか。
 サイズはA5版。いずれもきれいな、楽しい色々な絵の表紙―その中身は、どんなふうなのでしょう。
 何についての雑誌か、それはひとくくりにはできません。同人たちが誌面に繰り広げた世界は、様々な分野にわたっているからです。様々な分野とは、文芸、美術、音楽、演劇、思想、宗教…などなど。彼らはおのおのの中に、心の、強く赴(おもむ)く分野をひとつないしはいくつも持っていました。そして彼らは内の欲求があるところには、ひたすら進もうとしたのです。それらを、「白樺」に表出させていったのです。
 「白樺は自分たちの小なる力でつくった小なる畑である」…これは武者小路実篤による創刊号序文の書き出しです。その「小なる畑」は、多分野にわたる内容、加えて後々の世の中への影響力をもって「広大なる畑」にぐんぐんと成長していきました。 そう、「広大なる畑」に少しでも触れれば、「なんて彼らはシッカリしてたんだろう…!」と感嘆してしまうほどなのです。


白樺を読む その1
『武者小路実篤による「乃木大将の殉死」について・「個性」について』

 まず今回とりあげるのは、白樺創刊から2年目、1912年に書かれた武者小路実篤の文章です。
はじめに・・・「個性」ということにちょっと触れます。
白樺同人の集まりは、作っていた雑誌の内容からも分かるように、やはり十人十色といった集団でした。そんな中で、武者小路は「自己を生かす」、「他人を生かす」といった内容のことを多く言っています。そして彼は「個性」や「個性あること」について、繰り返すかのように文章を残しています。
この、武者小路の「個性ある」とは、どんな意味を持つのでしょうか。

「 個性ある人
個性ある人というのは、自己全体を有機体的に表現してゆく人を云
(い)ふのだ。・・・(中略)個性ある人にして初めて「自然」「人類」の意思を暗示し、個人の存在の権威を暗示することができる。」

 ・・・とこのように明言しています。現在様々な場所で「個性的な○○」とか「個性を演出」・・・とかいう言葉に出会いますが、そうした使われ方とはだいぶ違っているようです。武者のこの表現は、辞書をひいてその通りに書いた、という感じはまるでなく、著者自身のとらわれのないストレートな意思がまさに「有機体的に」迫ってくる文章です。武者小路にとって、自己をいかに「人類的」「世界的」スケールへと発展させられるかは「個性あること」にかかっている、ということが強く示されています。

 さて、このころ、1910年に起きた大逆事件のために、日本国内は自由民権運動が逆戻りするかのような気運が高まりつつありました。天皇を神格化し《国家神道》という明治政府が作った宗教に基づく政治によって、人民の権利を獲得しようという動きも結局はもみ消されつつあったのです。国民が、思想的な発言を自由にすることなどが、難しくなっていたことはいうまでもありません。
 そんな折、1912年明治天皇が死去し、当時陸軍将軍だった乃木希典(のぎまれすけ)が殉死(じゅんし)―。ちなみに乃木大将は、1907年から白樺同人の母校・学習院の学長も務め、皇族子弟教育のトップにもなっていました。

 この事件に際し、彼らが敬愛していた夏目漱石をも含め、様々な識者の間から乃木大将の行為を称賛する声が起こりました。白樺同人と同年代の歌人・三井甲之(こうし)も乃木大将の殉死を称えた一人。三井は右翼イデオロギーの持ち主で、明治天皇御製拝唱運動家でもあり、乃木大将についても「まことの詩人」としてその詩(短歌)作品を大変に評価していました(この短歌については、また後で触れるとします)。
 そして、三井は主宰する雑誌「人生と表現」誌上において、以前から「白樺」批判を発表していた人物でもあります。例えば、「白樺」が創刊号からヨーロッパの印象派等の絵画、彫刻を紹介してきたことに対し、
「西洋美術となって現れた東洋美術の、逆輸入のみをして居るのが白樺同人である。」
といった著述をしています。これは、「白樺」で紹介したヨーロッパの美術作品に対してもその価値を認めないと同時に、白樺同人の仕事をも愚行(ぐこう)とみなすような内容です。

 これに対し武者小路は「白樺」(第3巻12号)の巻末に「三井甲之君に」と題し、いくつかのセンテンスに分けて手紙のような文体で反論を書き綴(つづ)りました。

三井甲之君に

雑誌『白樺』第三巻第十二号 巻末に掲載された
無車の『三井甲之君に』の一節


「・・・第一君の言っていることがよく分からないのである。・・・私たちは躊躇(ちゅうちょ)すべきときではないのである。西洋文芸の模倣(もほう)時代を後戻りすることなしに通りこさなければならない。・・・」
と冷静に答えるかたちで書いています。この文章はここで終わらず、乃木大将の殉死、詩作品を賛美する思想に対しての反論へと繋(つな)がってゆきます。
「君たちが乃木大将を詩人として、理想的の人としてまつり上げるのは、明らかに西洋文明、西洋思想の模倣を憎むあまりに後戻りをしようとする運動に他ならない。」
と。さらに
「ゲーテやロダンを目して自分は人類的の人と云い」、乃木大将について「人類的の分子の少しも持たない人」としています。その殉死について
「・・・かくて自分は乃木大将の死を憐(あわ)れんだのである、もし彼にして名誉心以上の動機で死んだのならば。・・・しかし残念なことに人類的なところがない。・・・西洋思想によって人間本来の生命を目ざまされた人の理性はそれを賛美することを許さない。」

ときっぱり意思表明しています。
 もちろん、武者小路は西洋的・東洋的のどちらが優れている、とか比較の話しをしているのではありません。「世界的・人類的である」ということは重要であり、価値がある。それに対して単に「国民的」でしかないものは浅薄でしかない、乃木大将の行為もこの「国民的」なスケールで終わってしまっている。武者小路にとって、この時、やはり西洋の思想・芸術がより世界的であり、
「西洋文明・西洋思想にふれればふれる程、吾人(我々)は益々(ますます)自覚を得られるのである。自由を得られるのである。無知なる行動をせずに真に自己の価値を発揮する道を知るのである。」
と、それにふれるべき、だと考えていたのです。

 また、武者小路がまるで「型通りにして個性のあらわれていない(乃木大将と云う個人の人格のあらわれていない)歌として価値の零(ゼロ)なもの」とした乃木大将の歌とは・・・

「数ならぬ身にもこころの急がれて夢やすからぬひろしまのやど」
「すめらぎのわが大君のいくさぶね向う舳先
(へさき)になみかぜもなし」
・・・というものでした。
「・・・かう云う歌がもし作者の名を忘れたら、まるで笊(ざる)にいっぱいある団栗(どんぐり)の中に団栗を二つ三つ入れたようなものだ。一度かき混ぜればもう選(え)り出すことはできない。さう云う歌(或は文学)を個性のにじみ出ていない歌(或は文学)といって自分は軽蔑するのである。さうしてかかる歌を一首でもつくる人は真の詩人ではない。」
先に挙げた武者小路にとっての「個性」の意味をもって、なるほどと納得してしまいます。

 一連の文章によって、当時28歳の武者小路実篤がすでに「個性」ある優れた思想家であったことがわかります。
 それにしても、この時代にこれらの文章を公にするということは、どれだけ勇気のいることだったでしょう。それは、武者小路にとっては、ごく自然な行為だったかもしれませんが・・・。そして、読者の多くは、守旧派が台頭する時代の只中で時流に抗して発せられた、これらの文章・思想に共感を持ち、勇気づけられたのではないでしょうか。

参考:「白樺」第3巻12号(1912年発行)
    小学館 武者小路実篤全集 第1巻p473〜497
    未来社 「白樺派の作家と作品」本多秋五

桜井麻紀子


 いかがでしたでしょうか。《雑誌『白樺』を読む》は不定期のシリーズですが、これからもときどき桜井さんが書いてくれると思います。ロダンの彫刻を手にしたときの彼らの子供のような喜びようなど面白いネタはたくさんあるので私も楽しみです。請う、ご期待です。

2002年7月30日 古林 治

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