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125. 10.2 四谷集会 〜学校に言論の自由を求めて〜
   モンスター都教委さま 裁判へようこそ Part ll
   元都立三鷹高校校長土肥信雄の闘い  

 元・都立三鷹高校の校長、土肥信雄さんからタケセンに10月2日の集会の案内が届きました。(タケセンもこの集会の賛同人です.)
そのご案内と土肥さん自身による陳述書をご紹介します。
(下記に添付しますが、印刷されたい方はこちらのPDF版をどうぞ =>ダウンロード

 ご存知の方も多いと思いますが、土肥さんは東京都教育委員会の横暴、言論弾圧と一人で闘ってこられた方です。

 民主主義の世の中では、人々の言論の自由が保障されていなければ、その社会は間違いなく疲弊し崩壊していきます。なぜなら健全な考えというものは(対話的)討論の場からしか生まれないからです。教育の現場とはまさにその言論の自由が保障され、対話的討論を学ぶ場であり、民主主義社会を支える市民を育てる場なのです。
その教育の本質を守ろうと一人闘う土肥さんを支援しようと元教え子、保護者、教職関係者などで作られたのが
土肥元校長の裁判を支援する会  http://www.dohi-shien.com
です。
今回の集会もこの支援する会が主催です。

 元(大昔)都民であった私も参加するつもりです。
都民の皆さんもぜひ参加してご支援を!

 なお、土肥さんの活動に興味のある方は、
『生徒がくれた”卒業証書” 土肥信雄のたたかい』澤宮優 著 旬報社 ¥1500+税
を参照ください。

下記のポスター、クリックでもう少し大きくなります。

集会ポスター_表 集会ポスター_裏

 

陳述書

 

私は34年間の小学校、高等学校の教師生活を通じ、勉強がきらいな子ども、運動の得意な子ども、障害を持った子ども等々、様々な子どもと関わってきました。私は教師として当然のことですが、どの子どもにも幸せになってほしいと願っています。そのためには、一人ひとりの基本的人権が保障される、平和な社会でなければならないのです。

第1次世界大戦を体験した世界の人々は、戦争は子どもにとって最悪なものとして、1924年、国際連盟において子どもの権利に関するジュネーブ宣言を採択して国際的に子どもの権利を認めました。第2次世界大戦を体験した日本は、日本国憲法前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と不戦の誓いを述べ、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を三大理念とし、民主的な国家を目指したのです。基本的人権の尊重と平和主義を私のポリシーとしたのは、まさしく民主主義社会の中で子どもの幸せが保障されるからなのです。

その基本的人権のなかでも最も重要なのが、言論の自由だと思っています。国民の意見を反映できる民主主義政治にとって、言論の自由は絶対不可欠です。言論の自由がない民主主義や平和はありません。「おかしいと思ったら、声をあげる自由。これを失った時、本当の意味で国は滅亡の道を辿るんだ。」(『アメリカから自由が消える』 堤未果著 扶桑社新書)の言葉はまさにそのことを表わしており、言論の自由がない組織は独裁化し、腐敗し崩壊していくのです。戦前の日本、ソビエト、船場吉兆、ミートホープ等々、組織の大小に関わらず崩壊したのです。言論の自由こそ組織を活性化し、組織が発展していく最大の要素なのです。

学校は日本国憲法の理念に基づいて、教育基本法第1条にあるように、平和で民主的な国家、社会の形成者として必要な資質を備えた国民の育成をその目的とするものです。そのためには、学校そのものが言論の自由を保障し、民主的に運営されなければならないのです。教育の主体者は生徒です。教育という組織的、意図的営みは、教職員の主導権により、子どものために行われます。教職員の言論の自由が保障されなければ、教育の主体者である子どもの言論の自由も保障されないことは、戦前の教育を考えれば明らかです。

言論の自由が保障されているからこそ、私は政治経済の教師として生徒達に「自分の意見は間違っていてもはっきりと言いなさい。」と教えてきました。自分の意見を言うことは、ほとんどの日本の学校の教育目標に掲げられている「生徒の主体性、自主性」を育てることなのです。私は生徒にそのことを教えてきた責任からも、自分の思ったことを発言せずに、権力にへつらうことはできません。

教育は誰のためですか?生徒のためです。2009年3月24日の離任式で、卒業生から卒業証書と全クラスからの色紙をもらったことは、私の教育活動が評価されたことではないのでしょうか?都教委に従順に従わなければ、私の教育活動は評価されないのでしょうか?

私は法律や法令に違反するようなことは一切やっていません。都教委の通達、通知通りやってきました。「教職員の意向を聞く挙手・採決の禁止」の通知後、職員会議で教職員に説明した後は、三鷹高校では意向を聞く挙手・採決はやっていません。卒業式等においては、全日制では包括的職務命令も個別的職務命令も、定時制では包括的職務命令を出しています。業績評価も実施要領どおり18年度、19年度、20年度と提出しました。私は教育現場から言論の自由がなくなるのを恐れて、意見表明をしただけです。法令遵守は私のポリシーです。なぜなら、民主主義社会の日本では、選挙はほぼ公平に行われており、選挙で選ばれる議員や首長等は民意を反映していると思っているからです。したがって私と意見が違っていても、民意を反映している人達によって制定された法令等には従うことが民主主義だと思っています。もし自分の意見と違う法律は守らないとなれば、全ての人がそのように考え、無政府状態の社会になります。無政府状態の社会は、ホッブスが唱えた「万人の万人に対する闘争」が発生し、結局は弱肉強食の社会になり、弱者にとって非常に不利な社会になることは明らかです。そして、民主主義社会だからこそ少数意見は尊重されるべきであり、法令に違反しない限り、批判、意見表明は保障されているのです。

私の意見表明に対して、都教委は私が納得する回答をしてくれませんでした。この言論の自由の問題は、民主主義の根幹に関わることなので、都教委に公開討論を要求しました。しかし、公開討論にも応じてくれませんでした。やむを得ず、裁判所に提訴したのです。裁判という公開の場で意見をたたかわせ、国民、都民の皆さんの公平な判断を仰ぐためです。

私は大学卒業後大手総合商社に入社しました。しかし利益のためなら、法律さえも犯す(談合)企業にはなじめませんでした。経済的にも社会的にも安定した生活が保障されていましたが、将来の日本を担う子ども達に、平和で公平な社会を作ってもらいたいと思い、言論の自由のある教員になったのです。教員になったのは、言論の自由があったからです。いまさらその言論の自由を奪われたら、私が商社を辞めた意味が無くなり、私自身が無くなってしまうのです。言論の自由だけは、平和で豊かな社会を守るために譲れないのです。

 

それではこれからそれぞれの事象について、私と都教委の主張が全く違いますのでそのことについて意見を述べたいと思います。どちらの主張が真実であるかどうか是非ご判断ください。

 

(1)   生徒の表現行為に対する検閲の強要について

 2005年(平成17年)11月の校長会で、指導部の小山主任指導主事は「ある学校の文化祭において、生徒の掲示物を見た都民の方から、この掲示物は考え方が一方的であると言う指摘があった。校長はこのような掲示物については十分に注意して指導して欲しい。」との指導がありました。その時私は、生徒の掲示物を事前に調べて考え方を訂正させたり、掲示物を撤去したりすると検閲になるのではないかと思い、小山氏に、「私は事実誤認や人権の侵害に関わる表現については十分注意しています。しかし今回のような生徒の表現の自由の問題は、検閲にあたり裁判になる可能性があります。裁判になったときに、都教委は私たち校長を支援してくれるのですか?」と質問しました。その時小山氏は「十分注意して、指導してください」の一点張りで、私の質問には正対しませんでした。ところが都準備書面(1)によると、沖縄問題の話で、歴史認識の分かれるところだから注意、指導したとあります。しかし小山氏は、その掲示物が沖縄の問題であることは一切言いませんでした。

憲法問題の検閲や表現の自由に関連する事項については、事実を全て公にして、具体的に問題点を明らかにして指導すべきだと思います。(その時の校長会では具体的にどのような問題なのか一切説明しませんでした。したがって、私の講演会では、生徒の掲示物の内容が明確にされてなかったので、生徒の掲示物は沖縄の集団自決問題か中国の南京大虐殺の問題ではないかと話しました。)またもし「歴史認識」という言葉が小山氏の発言の中にあれば、「歴史認識」の問題について私は敏感なので、すぐに具体的にどのような問題なのかを質問したはずです。もともと、「文化祭にかかわる事故防止の徹底について」の通知は、今までは文化祭が始まる前の9月の校長会で指導されていて、文化祭がほぼ終わった11月に指導することは、初めてのことで、この指導自体が非常に意図的であると言わざるを得ないのです。もし詳細な説明があって、教員による煽動が明らかになれば私も納得しました。

校長会が終わった後、A校長が私のところに来て「土肥さん良く言ってくれた」とお礼を言われました。また私と話したB校長など複数の校長も、この問題は生徒の表現の自由に関わる問題だから簡単には指導できないと話していました。

 

(2)   職員会議において職員の意向を確認する挙手・採決の禁止の通知について

 2006年(平成18年)4月に出された学校経営の適正化の通知の中で、職員会議において職員の意向を確認する挙手・採決を禁止したのです。あまりにも突然のことで多くの校長が戸惑ったのではないかと思います。理由は下記の通りです。

1)     都は1998年(平成10年)に、それまで多くの学校で内規により職員会議を最高議決機関と規定してあったのを、補助機関としたのです。職員会議を最高議決機関とした場合は、職員会議で多数である教職員の意向によって校長の意に反する決定がなされることがあり、十分に校長のリーダーシップを発揮できないことがあったからです。この時点から最終的には校長が最終決定権を持っており、教職員の意向に関係なく校長が最終的な決定を下せるようになっていました。したがって、「意向」を確認する挙手・採決を禁止する必要は全く無かったのです。

2)     2003年(平成15年)10月23日に校長に対し卒業式等における適正実施のための職務命令が出されました。当時の高等学校教育指導課長である賀澤氏は、都立高校における最大の課題は国旗・国歌問題だと言っていました。(都準備書面1、P38L19にも明記されている)この国旗・国歌問題は、職員会議が補助機関で、しかも意向を確認する挙手・採決は許されていたにもかかわらず解決できたのです。当時、国旗・国歌については教職員の多くが反対で、挙手による意向も確認していましたが、校長は反対多数にもかかわらず、校長が国旗・国歌の実施を決定したのです。最大の課題が解決したということは、職員会議は補助機関の規定で十分であり、意向を確認する挙手・採決を禁止する必要は全くないといわざるを得ないのです。

3)     校長会からの要望でこの通知が出されたのなら、私も校長の一員として認めざるを得ません。しかし校長会で、「補助機関のままだと教職員の意向が反映されて、校長の思うような学校経営ができない。職員会議において意向を確認する挙手・採決を是非禁止して欲しい。」という議論は一切無かったし、都教委に校長会として要望を出したことはありません。都教委自身の調査でも、職員会議での問題があったのは約260校中22校の10%以下の絶対的少数であり、22校に都教委が校長を指導、あるいは校長を更迭すればいいのであり、全体を拘束する通知の必要性は全くなかったのです。しかも意向確認の挙手・採決の禁止しているのは、毎日新聞の調査によれば、全国で東京都の都立高校のみでした。2008年11月22日(土)フジテレビ「たけしの平成教育白書」で、私の論争相手として出演した「新しい歴史教科書をつくる会」の幹部である高橋史朗氏も、最初は私に反対の立場で、教職員の意向を確認する挙手・採決の禁止の通知は正しいと主張しました。しかし東京都が既に補助機関化していると聞いて、最終的には私に同意したのです。高橋氏は、東京都はまだ職員会議が最高議決機関で、補助機関化していないと思っていたのです。そのことを書いたのが産経新聞・解答乱麻の高橋氏の論文なのです。論文には補助機関であれば、意向を確認する挙手・採決は問題ないと述べているのです。したがってこの通知の本当の目的は、都教委以外の考え方を一切認めず、教職員の言論の自由を封殺しようという意図なのです。

4)     学校教育法施行規則に「職員会議は校長が主宰する。」と明記されています。校長が主宰するということは、最終決定権が校長にあることを規定するとともに、職員会議の運営方法も校長が決めることです。校長は学校の長として学校を活性化し、教育の主体である子ども達が満足する学校を創り出さなければなりません。そのために最も重要なことが、教育の主体者である子どもと直接対応する教職員の士気高揚と共通理解です。職員会議は、この教職員の士気高揚と共通理解に欠かせない場なのです。職員会議で自分の意見が反映されることで責任を感じ、他の教職員と意見を交えることで共通理解が生まれるのです。教職員にとって最高の研修の場なのです。その職員会議が議論する場ではなく、報告する場となったら、教職員の士気高揚と共通理解はあり得ないのです。

それ以上に重要なのが、校長のリーダーシッップを発揮する場なのです。職員会議での校長の発言、態度により、校長の見識、判断力、先見性等を教職員が判断し、校長のリーダーシップのもと教職員が一体となって教育活動に取り組むことができるのです。校長のリーダーシップは、教職員と校長の信頼関係があって初めて発揮できるのです。教職員の意欲をいかに高めるかというのが管理職にとって、最大の職務であり課題です。校長が、議案によって、この議案は校長の専決事項、この議案は教員の意向を確認して決定する、というような判断力こそがリーダーシップを発揮する最大の手段なのです。意向を確認する挙手・採決の禁止は校長のリーダーシップさえ奪っているのです。

以上のような私の主張に対し、都教委の反論は全く的外れであるとともに、学校の実態を全く把握していないとしかいいようがありません。都教委の主張を列記します。

1)     教職員の意向を確認する通知を出した理由について、1997年(平成9年)の新宿高校問題を例に出し長々と説明していますが、これは1998年(平成10年)に職員会議を補助機関にした時の背景であり、1998年以前の問題です。06年(平成18年)の背景は前述したように、260校中わずか22校の問題であり、教職員の意向によって校長の学校経営が影響を受けているのはきわめて少数なのです。校長会でも全くそのような議論が無かったこともそれを証明しています。

2)     教職員の意見を聞く機会は職員会議だけでなく、様々な場面で意見を聞くことができるのであり、それをしていない土肥はその職責を放棄していると主張しています。少なくとも私は他の校長以上に校長室から出て、教職員との会話を心がけ、多くの意見を聞いています。しかし職員会議で討論する内容についての個々の意見を吸い上げることは物理的に不可能であり、それを行う場がまさしく職員会議なのです。また教育活動にとって最も重要な教職員の共通理解を得るためには、全体の場で討論することが不可欠です。様々の教職員の意見を聞くことが、教師としての力量を高めるのであり、教職員にとって職員会議は最高の研修の場なのです。

3)     通知後、三鷹高校の校長を除いた全ての都立高校の校長に面談により意見を聞いたところ、教職員の言論の自由がなくなっているような実態はないと発表しています。唖然とせざるを得ません。人事権を握っている都教委に、しかも面談で問われて、本当のこと、特に都教委の意向に反することをいえる校長がいるとは思われません。常識で考えても校長が「教職員の言論の自由が無くなった」と言うことが無理なのは自明の理です。私は、今回の場合は教職員の言論の自由のことを言っているのであり、管理職に教職員の言論の自由があるかないかを聞くことは、どのように考えても非常識です。都教委が正々堂々と教職員に無記名でアンケートを取り、その結果半数以上の教職員が「言論の自由が無くなっていない」と答えたならば私は素直に誤りを認めます。

4)     高橋史朗氏の産経新聞「解答乱麻」の論文は、明らかに意思決定のための挙手・採決は認められないが、意向を確認する挙手・採決は問題ないと明記してあります。フジテレビでも私に同意したのはその点です。しかし都教委は、高橋氏の論文は全ての挙手・採決を禁止していると断言しています。「解答乱麻」をどの様に読めばこの結論に達するかお聞かせ願いたいと思います。

 

(3)   密告と賀澤課長の恫喝による言論統制

1)     賀澤氏の恫喝による言論統制

都教委は2003年(平成15年)10月23日に全都立高校の校長に対して「卒業式・入学式等に置ける国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」という職務命令を出しました。その通達に基づいた最初の卒業式(2004年3月)の都教委の指導は社会的常識では考えられない、強権的な指導だったのです。例えば椅子の向き、式場に入場する時間、教職員の座席の指定、個別的職務命令の発出の指導です。

私は当時神津高校の校長でした。その時の全ての都立高校の卒業式には、都教委が派遣する教育庁の職員が二名、国歌斉唱の「監視」として派遣されることになりました。都教委は「支援」と言っていますが、私は都教委に対して「支援」は全く要請していません。なぜなら、神津高校の教職員は全員が国歌斉唱時に起立することを私に約束してくれたので、「支援」してもらう必要は全く無かったのです。しかし都教委は強権的に全ての都立高校に2名派遣しました。「支援」ではなく「監視」としかいいようがないのです。

神津に派遣される2名の日程が、卒業式のわずか10日前くらいに来ました。その日程を見ると、1名は前日神津で泊まるため、問題なかったのですが、1名は船で来るため、卒業式の遅刻は必至でした。(卒業式の開始時間は午前10時、船の神津島港到着は9時55分)今回の卒業式については、教職員に卒業式の5分前に必ず着席するように都教委からの強い指導があり、私も教職員に5分前に着席するように指導しました。理由は、開式直後の国歌斉唱時に席にいて国歌斉唱をさせるためです。その指導を強要した都教委自身が遅れてくることは、大きな問題です。そのため私は指導部に、「教職員に卒業式の5分前に着席させろ、と指導した教育庁の職員が遅れるのは、大きな問題だ。国歌斉唱の監視のための派遣なのに、国歌斉唱が終わってから来ては意味が全くないので、2名来るなら2名とも前日泊まらせて欲しい。それが無理なら一名でお願いしたい。」と1名の日程の変更をするように強く要請したのです。しかし、再度きた日程も全く同じ日程でした。その時「もし遅れてきたら校長会で問題にする。」と強く思いました。都教委の主張する、調整がどうしてもつかない旨を私は聞いていません。もし調整ができないのなら、私は遅刻する職員を認めるわけにはいかないので、派遣を断りました。また、もし都教委の調整がつかない旨を私が了解しているとすれば、後述するような指導部への抗議の電話や、校長会で賀澤氏に質問することはありません。何の連絡も無く、ただ同じ日程がFAXできたのです。そして一名は実際に遅れて来たのです。

私はこの遅刻問題はあまりにも非礼なので、指導部に電話を掛けて強く抗議しました。すると、K指導主事は「卒業式を遅らせれば良かったのに。」とこれまた社会的常識では考えられない発言をしたのです。村長をはじめ、多くの来賓を待たせて、教育庁の職員が来るまで卒業式の開始を遅らせることは社会的にも認められないと思います。

そのことについて翌年度の4月の校長会で、賀澤氏(高等学校教育指導課課長)に、その強権的で非常識な指導を問いただそうとしたところ、賀澤氏は「そのような神津高校の個別の問題を全体の校長会の場で言うな。後で控え室に来い。」と怒鳴り声で私を恫喝し、私の発言の自由を奪ったのです。私は校長会を混乱させることは本意ではないので、その場は引き下がりました。校長会が終わって控え室に行った時も「何故神津の個別的なことを質問するのだ。」と大きな声で怒鳴られ、言論弾圧を受けたのです。私は賀澤氏に対して「あなたは私に対して怒鳴りましたね」と指摘しているので、賀澤氏が大声で怒鳴ったことをはっきり記憶しているのです。

1)     密告問題

2006年(平成18年)10月5日都教委の高野指導課長から連絡があり、6日の11時に都庁に来てほしいと言う連絡がありました。6日に都庁に行くと高野指導課長、加藤学務部課長、清水人事部副参事の三人が私を指導しました。「あなたの事を内部告発する投書があった。」主な内容は二つ。一つ目は、教育委員の米長氏を、校長会後の飲み会の席で批判したこと。二つ目は、日の丸・君が代裁判で管理職にもかかわらず、原告(教職員)が勝訴した難波判決を定時制の職員室で教員とともに評価したこと。この二点について厳しく指導されたのです。「都立高校の管理職である校長にもかかわらず、教育委員の米長氏を批判するとは何事だ。日の丸・君が代問題で我々都教委(被告)の相手(原告)である教職員が勝訴した難波判決を、校長が評価するとは何事だ。この内部告発の文書は既に教育委員会と都議会にも行っている。今後このような発言をすると大変なことになる。」と言われ言論弾圧されたのです。しかしこの二つのことについては正当な理由があります。米長氏は私と考え方が全く違います。米長氏が天皇の園遊会に呼ばれ、天皇に「国旗・国歌について、強制はしないでください。」といわれながら、都立高校に国旗・国歌を徹底的に強制したので批判したのです。言論の自由が憲法で守られている日本で、批判してはいけないのでしょうか?しかも米長氏は校長会で「私は将棋指しだから敵がいる。だから敵は大好きだ。しかし味方の顔をした敵は許せない。」と暗に本来味方でなければならないのに、米長氏と意見の違う教育庁内部のI指導部長とT指導部高等学校教育指導課長を批判したのです。(このことは米長氏の当時ブログにも載っていました)何故かというと、この二人は卒業式等について、不起立者が少なくなり落ち着いたら個別的職務命令の発出を辞めようと考えていたからです。具体的には05年9月の校長会でT指導課長が、落ち着いたら個別的職務命令の発出を検討すると発言したからです。また米長氏の言葉を正確に捉えれば、米長氏は敵が好きなのです。私は敵ですから、米長さんに好かれているはずです。だから私は米長氏を批判したのです。

難波判決については前述したように、卒業式の指導があまりにも強権的な都教委の指導であったので、都教委も少しは冷静になって頭を冷やす良い機会だと思って難波判決を評価したのです。

呼び出しはこの1回で終わりませんでした。2回目は10月23日、3回目は10月25日です。2回目の時に、米長氏が三鷹高校に学校訪問に行く予定であることを知らされました。これは明らかに私に対する脅迫だと思いました。3回目は新井参事だけで、「近いうちに米長氏三鷹高校へ行く。中部センター所長の沼沢氏を同伴する。」と伝えられたので、私は「米長氏が三鷹高校に来る日は、事前に教えて欲しい。」と依頼したところ、新井氏は了解しました。学校に帰り、米長氏が近いうちに米長氏が三鷹高校に来ることを教職員に伝達しましたが、結局米長氏は三鷹高校には来ませんでした。都準備書面で私の主張と全く違うところは、米長氏についての記述が全くないことです。私に対する指導は2回だけで、3回目の新井氏の指導がなかったことになっています。米長氏が三鷹高校に来る予定だったことは、三鷹高校全・定の全教職員も知っており、事実に間違いありません。にもかかわらず、都教委は米長氏の件は全く触れていません。卑怯としかいいようがありません。

 

(4)   校長による教職員の業績評価に対する違法・不当な干渉

 教職員の業績評価については「東京都立学校教育職員の業績評価実施要領」により、一次評価者は校長で、絶対評価によって行う、と明記されています。にもかかわらず、都教委は相対評価を強要したのであり、明らかに都教委こそ法令違反を行っているのです。業績評価は2006年度(平成18年度)から、それまでの5段階評価から4段階評価へと改正され、また被評価者(教員)の開示請求も制度化されました。2006年度においては、代々木青少年センターで行われた都教委の最初の説明会で、人事部の清水氏は「5段階評価の時の割合を考えると、3割程度CD評価者がいるはずであるから、少なくとも20%位はC・Dが付くはずである。」と説明したのです。しかし18年度はあまり強い指導はありませんでした。実際に06年度の教育職員のCDの割合の結果は約6%程度であり、この割合は都職員(教育職員を除く)の約6%と同じ割合でした。この数字は07年度の業績評価、評価者訓練の場でもK講師が公表していました。前述したように、開示請求が制度化されたため、校長もC.D評価については慎重にならざるを得なかったのです。06年度、私自身はCD評価については、結果的には平均を上回る12%で提出しました。

 ところが06年度のCDの6%という低い割合が都教委とっては不満だったらしく、07年度になると非常に強い指導に変わったのです。即ちCDを20%以上付けていなければ、提出しても最初は受け取らない、という指導です。私が校長会で「実施要領に絶対評価とあるのに、何故相対評価を指導するのか答えて欲しい」と都教委に質問したところ、何と中部学校経営支援センターの蛭間副参事は「答えられない。」という返事が返ってきたのです。都教委は校長会等で常々「校長は常に説明責任がある」と指導していた都教委が、説明責任を全く果たしていないのです。ほとんどの校長は、1回目で突き帰された時は、2回目にはCDを増やして行くことは明らかです。何故なら、同じ割合で再度もって行けば、校長自身の業績評価が低くなるからです。実際に06年度CDを極端に低い割合にしたD校長は、都教委によって低い業績評価を付けられたのです。07年度、私もCDを20%以下で持っていったところ、一回目は当然のように突き帰されました。面談した小山副参事から、私のつけた業績評価への質問があり、それに対して私はその理由を話しました。小山副参事は、ほかの問題点は全く指摘しませんでしたが、受け取ってもらえなかったのです。単にCD評価が20%以下だからです。次の日に全く同じ業績評価を持っていきましたが、何の指導も無く受け取りました。もし前日、小山副参事から問題点の指摘を受けていたなら、何らかの説明をしなくてはいけませんが、何の説明も無く提出したのです。

 この結果07年度の教育職員のCDの割合は約18%に激増したのです。それに対して都職員(教育職員を除く)の割合は前年度と変わらず約6%のままであり、この結果からも、教育職員に対する都教委による強制的な指導があったことは明白です。都教委の主張では「20%以上でないと受け取らない」という指導をしていないと言っていますが、それは全くの嘘です。CD20%という数字は都立高校のほとんどの教職員が知っていることであり、都教委が指導しなければ、結果として約18%のような数字は出てこないはずです。また、実施要領にCは「あと一歩」と明記されているにもかかわらず、都教委は、校長会や評価者訓練でCは「標準あるいは普通」であると強弁し、C評価の教員はかなりいるはずだと指導していたことを付け加えておきます。このことについては多くの校長が「実施要領には、Cはあと一歩とあるが、何故Cが標準(普通)なのか説明して欲しい」と質問しましたが、指導した都教委は校長が納得する説明はしませんでした。

 なお、上述したCDの割合は全て都教委が校長会や評価者訓練等で公表した数字です。

 

(5)   守秘義務違反という言論弾圧

 私は「職員会議において教職員の意向を確認する挙手・採決の禁止」の撤回を都教委に求める中で、都教委に対し2008年(平成20年)8月20日を回答期限とする要請書を8月4日に、都教委教育情報課徳田情報担当係長に手渡しました。その回答が19日、都立学校教育部課長、古川氏より電話で口頭により来たのです。(文書で回答をお願いしたにもかかわらず口頭でした。)その回答を私が文書化し、8月22日に記者会見をして報道関係者に明らかにしたのです。その中で、業績評価について「CDが3割程度あった」の表現が守秘義務違反にあたるとして、9月4日に人事部に呼ばれ、人事部の吉原氏(記録係として田口氏が同席)から服務事故の守秘義務違反として事情聴取を受けたのです。業績評価実施要領に絶対評価とあるのに3割程度という相対評価を指導することは、都教委こそ法令違反(実施要領違反)をしているのであって、その事実を公表することが、どうして守秘義務違反になるのか私には全くわかりません。とにかく土肥の発言を押さえようとして、言論弾圧のために守秘義務違反で事情聴取をしたとしか考えられません。当然のことながら、服務事故にはならず、何の処分もありませんでした。このことは事情聴取が私への脅迫であることを如実に物語っています。私は都教委こそが法令遵守義務違反をしているので、9月19日に都教委を公益通報の処理に関するする要綱に基づいて内部告発しました。しかしその窓口が、何と都教委の出先機関である中部学校経営支援センターでした。都教委の犯罪を内部告発する時は、当然都教委とは関係ない第三者機関だとばかり思っていましたので、これでは内部告発しても無駄だなと思っていると、案の定10月7日に公益通報不受理通知書の通知が来ました。

 

(6)   校長に対する職務命令の強要と名誉毀損

 都教委は2003年(平成15年)10月23日(10・23通達)に卒業式等の適正実施を図るため、職務命令を全校長に出しました。その時私は、校長に対して職務命令が出たのであるから、もし教職員に職務命令を出さないで適正実施が出来なければ、校長が処分されると理解しました。法令遵守が私の信条なので、教職員に対しては職務命令を出さざるを得ないと考えました。しかしながら、職務命令は口頭でも有効であるという裁判所での判決が出ており、通達以後の最初の卒業式(04年3月)では口頭による包括的職務命令を出すつもりでした。ところが都教委は、口頭による包括的職務命令だけでなく、文書による個別的職務命令も「校長の権限と責任」で出せと強要したのです。私は包括的職務命令だけで十分だと思いましたが、当時大島高校と八丈高校が不起立者の出る可能性があったため、やむを得ず個別的職務命令を出すことに同意したのです。なぜなら、その時私は神津高校の校長で、島の校長会のまとめ役をやっていたからです。なお、この時の卒業式で都教委の厳しい指導にもかかわらず、個別的職務命令を出さない校長が二人いました。新宿高校の小栗校長と、西高校の石川校長でした。二校とも、口頭による包括的職務命令だけで卒業式が適正に実施されました。

 2007年度(平成19年度)三鷹高校定時制の卒業式(08年3月実施)では教職員との信頼関係も出来、不起立はしないとの確信が得られました。したがって職務命令は口頭による包括的職務命令のみにする意向を、08年1月の校長会で発言しました。なぜなら個別的職務命令の発出は、「校長の権限と責任」であると都教委も明言しているからです。その以後、6回に渡って最高6人に囲まれて、個別的職務命令の発出を強要されたのです。6回という回数は指導ではなく、強要であり脅迫だと思います。都教委の言い分は、もし不起立者がでたらどうするのか、と他の校長が困る、の二点だけでした。もし不起立者が出たら、包括的職務命令に基づき、都教委に報告して処分するだけで何ら困りません。他の校長のことは、私には何の関係もないと思います。それぞれの校長の責任と権限で発出すればよいだけなのですから。その時、どうしても個別的職務命令を私に発出して欲しいのなら、私に対して「個別的職務命令を出しなさいという職務命令を出して欲しい」と都教委に依頼しました。私は法令遵守が信条ですから、もし私に職務命令が出たら、私は個別的職務命令を出さざるを得ないのです。実際に、三鷹高校定時制卒業式では口頭による包括的職務命令を発出したのみで卒業式は適正に実施されました。

 しかし、当時の守屋指導課長は、校長会の質問に答えて、三鷹高校定時制でも個別的職務命令を出した、と虚偽の回答を全ての校長に伝えたのです。私は個別的職務命令を出してはいません。最も数の多い式場内にいる教職員を対象とした、個人名の入っていない職務命令を定時制職員室で読み上げただけであり、明らかに口頭による包括的職務命令です。私が行ってもいない個別的職務命令の発出を、「三鷹でも個別的職務命令を発出した」と全ての校長に虚偽の回答をしたことは、私の名誉を著しく傷つけていると思います。

08年度(平成20年度)の三鷹高校定時制でも、口頭による包括的職務命令だけしか出さないと発言したところ、やはり3回の強要(強い指導)がありました。実は神津高校で、ある教員が、包括的職務命令だけであれば起立するが、文書による個別的職務命令まで出すというなら、我々を信頼していない証拠だから起立しない(不起立)と発言しました。その時私は、包括的職務命令だけで適正実施が出来、個別的職務命令まで出すと適正実施が出来ないのなら、適正実施のために個別的職務命令は出さない方がいいなと思っていました。(その教員はその後、私の説得に応じてくれ起立しました)神津のそのような経験があったので、強要した都教委の人に「皆さんは、個別的職務命令を出すことと卒業式が適正に実施されること(不起立をなくすこと)とどちらが重要なのですか?」と質問したところ、全員(小山副参事、萩原指導主事、増田指導主事、守屋指導課長、北内室長)「重要なのは個別的職務命令を発出すること」と答えたのです。驚いて、あいた口もふさがりませんでした。10・23通達は、卒業式を適正に行うための職務命令のはずです。しかし都教委全員が、個別的職務命令の発出のほうが重要だと発言したのです。職務命令はあくまで、適正実施のための手段です。しかしこの回答は手段が目的になったのです。これこそ本末転倒です。都教委の本音は、適正実施はどうでも良く、とにかく都教委の指導に従わせることが一番重要なのです。この件についても、都準備書面ではそのような質問は無かったと嘘をついているのです。都教委に都合の悪いことは、全部無かったことにしているのです。米長氏の三鷹高校訪問の件もそうでした。

 

(7)   都教委の恣意的、独善的、強権的な言動に関する事情

 三鷹高校には定時制もあり、2005年度(平成17年度)途中より定時制通信制教育研究会の会長になり、2010年3月退職まで会長を務めました。06年11月頃、指導課長の高野氏より電話があり、「来年(07年2月)に行う指導体験発表会の発表者について、初めに決まっていた発表者は嫌々引く受けた経緯があり、今回積極的に発表したいという人がいるので発表者を変えて欲しい。」という要望がありました。私は嫌々発表するよりも、自分から発表したいというのであれば、その人が発表した方がいいと思い、すぐにOKの返事をしようと思ったのです。しかし、初めの発表者の発表原稿が出ていれば、交代は無理だと思い、高野氏に原稿の有無を確認してから、折り返し電話する旨を伝えました。担当のE副校長(指導体験発表実行副委員長)に電話で問い合わせたところ、既に発表原稿が出ているという返事があり、高野氏に発表者の交代は無理であることをすぐに伝えました。発表を嫌がる教員は多いのですが、発表の原稿を書き上げたら、発表するのは当然のことだと思います。発表を、嫌がる理由は発表原稿を書き上げることが大変だからなのです。発表原稿が出来てから発表を断るのは、あまりにも発表者に対して失礼です。ところが翌年になってプログラムを見ると、初めの発表者の名前はなく、発表者が交代していたのです。副実行委員長のE副校長に聞いたところ、本人が了承したということであり、私も納得しました。ところがその後、最初の発表者の上司であるF校長から連絡があり、今回の交代は思想的な問題があったことが判明したのです。最初の発表者は、ある雑誌にリベラルな論文を発表しており、それが交代の理由だったのです。発表原稿を私も見ましたが、原稿は純粋に教科の指導案であり、雑誌に発表したリベラルな内容とは全く関係の無い内容であることがわかりました。明らかにこの教員の言論、表現の自由を弾圧であると思いました。これに対する都教委の反論は嘘ばかりです。もっとも大きな嘘は、指導体験発表会は若手の発表の場であり、最初の発表者はベテラン教員だったから交代させたと都教委は主張していることです。そのようなことは絶対にありません。指導体験発表会の規定にも、発表者を若手に限るというような記述は無く、私自身が会長として実際に3回指導体験発表会を見ていますが、私も知っているベテラン教員が多く発表していました。過去のプログラムを見ても多くのベテラン教員が発表しています。高野氏が土肥から「家庭科担当の副校長と調整して欲しい」と伝えたとありますが、そのようなことは言いません。なぜなら家庭科担当副校長とは一度も話したことが無く、全ては実行副委員長の副校長と話しただけでした。前述したように、私は高野氏に最初の段階で交代は無理だと断っただけで、それ以外のことは高野氏にはなにも言っていないのです。

 

(8)   不合格処分

 私は退職と年金支給の間を経済的な不安を解決すべく、2008年度に非常勤教員採用選考に応募しました。その結果が不合格だったのです。不合格の理由は、提出された書類と面接結果を総合的に勘案して決定した、と都準備書面に記述されています。

 私は教育の主体は生徒であり、その生徒が満足する学校生活を送れるよう全力を尽くしてきたつもりです。その結果が、最後に卒業生から卒業証書と全8クラスからの卒業生全員からの色紙、そして卒業生の保護者からの6枚の色紙でした。この事実は校長である私に対して生徒・保護者が高い評価を与えてくれた証拠だと思います。都教委も教育の主体である生徒が満足する学校生活が送れるように常々校長には指導しています。であるとすれば、学校生活に満足し、生徒と保護者が高い評価を与えた私を不合格に出来るわけがありません。その私を不合格にしたことは、都教委は主体である生徒のことなど全く考えず、自分の権力を守るため、自分の権力に従わない者は全て排除する組織であることを証明しているのです。

 不合格の理由である「採用選考推薦書兼業績評価」と「面接」についての都教委の主張について反論したいと思います。

 最初に私の採用選考推薦書兼業績評価について反論します。評価は全ての項目で「C」、「オールC」です。しかも職務に対する適正「少ない」、推薦の有無「無」で業績評価としては最低の評価です。生徒・保護者から高く評価されている私が「オールC」なのは納得がいきません。その理由を見ると、私の教育活動についての評価は全くないのです。全て私が都教委に対して意見表明をしたことだけが、評価の対象になっているのです。校長の評価者訓練でも評価の対象は教育活動が主であることを都教委は強く指導しています。にもかかわらず、私の教育活動にたいする評価は全くありません。しかも私が都教委に対して意見表明したものは全て理由があり、最終的には生徒のために意見表明をしたつもりです。私は教育活動において様々な取り組みを行い、実績を上げました。第一が進学指導の充実です。三鷹高校全日制は進学校として地域では有名です。しかしながら、学校の大学進学指導態勢として、夏季休業中の補習が不十分でした。なぜなら、補習は教員のボランティアであるとの認識で、学校が組織的に取り組んでいなかったのです。次年度からは学校の組織的な取り組みとして、教務部が補習の時間割を組み、生徒を募集する形となりました。第二が挨拶と遅刻の減少です。私は生徒との信頼関係を確立するために、毎朝昇降口に立って生徒に朝の挨拶をし、遅刻指導も行いました。遅刻指導については学校全体で取り組むようになり、非常に遅刻の少ない学校になったのです。F生活指導部主任が「土肥校長先生が朝の挨拶を生徒にしてくれるので、生徒の挨拶がとてもよくなった」、また進学校であるK高校から転任してきたG先生からは「三鷹高校は遅刻がとても少なく、授業がやり易い」と言ってくれたのです。第三が盗難事故の減少です。私が三鷹高校に赴任した2005年度、非常に多く盗難が発生し(55件)、生徒が楽しい学校生活が出来ないような状況がありました。お互いに(生徒と教員、生徒と生徒)信頼して集団生活を送っている学校という場で、お互いの信頼関係を壊すような盗難については、私が教員になって以来、強い指導をしてきました。なぜなら、人のものを盗むと言うのは所有権の侵害であり犯罪です。それとともに、加害者が学校の生徒であった場合、道義的に学校を辞めなければならない、つまり学習権を放棄しなければならない場合も多くあります。盗難は二重の意味で基本的人権を侵害するのです。だからこそ私は盗難を減少させる最大の努力をしました。全校集会ごとに、私が何故盗難を許せないのかを、上記の理由を話して明確に伝えました。

また教職員にも協力をお願いして、校内巡回等を行い、盗難予防に努めました。その結果、次年度(2006年度)には25件に、2008年度には何と一桁の8件にまで激減したのです。卒業生のK君は「盗難や暴力事件も無く、平和な学校だったので本当に楽しい学校生活であった。」と語っています。私の業績評価書には、このような私の教育活動についての評価はどこにもないのです。また、一つでも教育活動に関する低い評価があれば、まだ納得することもできます。例えば私が三鷹高校在職中、クロロフォルムが盗まれるという事故が発生しました。結果的には犯人が捕まり、早期に解決ができましたが、盗まれたことについては学校の最終責任者である校長の責任だと思います。その記述は一行もないのです。

 次に面接について述べたいと思います。実は非常勤教員試験の面接にあたり、私は不合格につながるような発言はしないと心に決めていたのです。なぜなら東京都の非常勤教員にならなければ、60歳から65歳まで無給になり、将来の生活が不安だったからです。面接の時、不利なことを発言すると、そのことを理由に不合格になる可能性があり、そのことだけは避けたかったのです。

実は校長試験の面接の経験が、今回の面接で不利なことを言わない、と私に決心させたのです。校長試験の時「あなたは、校長として赴任した学校で、国旗・国歌が実施されてなかった場合、入学式ではどうしますか?」と質問され、正直に「実施しません。まだ教職員との人間関係が出来ていませんから。」と答えたのです。そしたら大変でした。4人の面接官から質問攻めに合ったのです。終わってから、今回は駄目だ、と思いました。学校に帰って校長に報告すると、校長も私と同意見でした。(結果的にはこの校長試験で私は合格しました。校長も驚いていました。何故合格したのか今でもわかりません。ただはっきりと発言したので、決断力があると判断されて合格したのかもしれません)この経験があり、しかもますます都教委の姿勢は強硬になって来たので、今回は面接で失敗しないように心がけました。面接官の最初の質問は、非常勤教員でどのような職種を望むかでした。私は定時制の経験もあり、校長経験者が行っている中退者等の教育相談をやりたい旨を理由も述べて答えました。次に教員の指導ができるか質問されました。私は小学校の経験もあり、授業方法の指導については自信があったので、小学校の時の経験等を含めて教員の指導には自信があると答えました。私が覚えている大きな質問はこの二つで、終わった時に面接はとても上手くいったなと感じました。もし都教委に対する私の批判について質問された時は、どのように答えようと思っていたのですが、そのような質問は全く無かったので上手くいったと思ったのです。ところが都教委の準備書面では全く質問されなかった下記のことが書いてあったのです。

準備書面には面接官1が都教委の重要施策について質問したら、私は都立高校改革の批判等を含め回答したと書かれていました。これは嘘です。もし重要施策のことを質問されたら、三鷹高校の中高一貫校について答えたはずです。都立の中高一貫校は都教委の重要施策の目玉でありかなり力を入れています。私はその担当者として、都教委が三鷹高校に赴任させたと思っています。初めは三鷹高校の多くの教員が反対意見でしたが、「優秀な人材を、全て私立に取られることは許されない。」の理念を前面に打ち出して、教員を納得させたのです。面接官2が都教委の施策を学校に定着させるにはどのような苦労があるかという質問に対し、私は制度の批判を含めて各施策の単なる状況の説明に終始し、質問に正対せず、自説の論理を述べるのみであったと書かれています。これも嘘です。私は三鷹中高一貫校の開設にあたり、前述したように教員を納得させ、定着させるために最大の努力を払いました。面接官2の質問に対して三鷹中高一貫校のことを話さないということはあり得ません。三鷹高校に赴任して本当に楽しい毎日でしたが、三鷹中高一貫校の問題だけは非常に難しい問題でした。前任校長が都教委に要望した高校付属中学型(高校の時も入試がある)を中等教育型(入試は中学だけ)に変更することも、先生方を説得するために甚大な努力を払って本当に苦労したのです。面接官2の質問に対して、この定着させる苦労を話さない理由はどこにもありません。

 

以上、私の主張と都教委の主張の違いを列記しました。お互いの主張が違うことについては、お互いの考え方が違うので仕方ありませんが、どちらの主張が正しいかを判断する場が裁判だと思っています。ただ事実は一つです。その事実に基づいてお互いの主張を述べあい、どちらが正しいのかを判断するのだと思います。お互いに生徒のためを思って、教育に携わっているはずですから、嘘をつく必要はどこにもありません。しかし都教委はあまりにも嘘が多すぎます。都教委は嘘をつかなくてはいけないような後ろめたい教育行政を行っているのでしょうか。もっとも明白な嘘を再度列記します。

1)       密告の時、3回指導されたのに2回しか指導はしていないと主張している。3回目は新井氏が米長氏の三鷹高校訪問を通告したのであり、その指導は無かったことになっている。米長氏が三鷹高校に来ることについて、まったく触れていない。

2)       神津高校の卒業式のとき、1名について調整がつかない旨を私に伝えたとあるが、そのようなことはない。

3)       業績評価において、CDを20%以上付けろと言いながら、そのようなことは言っていないと主張している。

4)       三鷹高校定時制で口頭による包括的職務命令しか出していないのに、個別的職務命令を出したと主張している。

5)       定時制の指導体験発表会は若手の発表の場であり、ベテランは出ないという主張は全くの嘘である。多くのベテラン教員が出ている。

6)       08年度の卒業式の職務命令の問題で、私が「個別的職務命令を出すのと、卒業式を適正の行うのとどちらが重要なのですか」と質問したにもかかわらず、都教委の6人は、そのような質問は無かったと主張している。

 

最後になりますが、今回の口頭弁論とは直接関係ありませんが、今年(2010年)に入っても都教委が私に対する報復行為(イジメ)を行っていると言う事実をお話したいと思います。学校で生徒のイジメがないように指導している都教委が、校長に対して権力を行使してイジメをしてよいのでしょうか。まさしくこれは都教委による私に対するパワーハラスメントであり、人権侵害そのものです。

都立高校、いやほとんど全国の学校の卒業式では、前年度異動・退職した教職員及び卒業生に関係した教職員には、来賓として招待状を出すことは常識になっています。校長の場合は、校長が入学させた生徒の卒業式まで招待するのが礼儀です。ところが今年3月の三鷹高校の卒業式の招待状がなかなか来なかったのです。私は招待もされないのに卒後式に出るほど図々しい人間ではありません。しかし今年の三鷹高校の卒業式にはどうしても行かなければならない理由がありました。なぜなら、昨年度退職にあたり、多くの2年生の生徒から、「校長先生、来年の私の卒業式には絶対来てくださいね。」と頼まれ、私が入学を許可した生徒なので「絶対に行くよ。」と約束をしていたからです。形式的に出席をするような卒業式であれば、招待状が来なくても私はなんとも思いません。しかし今年の三鷹高校の卒業式は、「生徒との約束を守る」ため、どうしても行かなければならなかったのです。あまりにも招待状が遅いので学校に電話したところ、まだ招待状を発送していないとの連絡を受けました。その時の様子で、何か都教委から圧力がかかっているなという事を感じました。数日経って校長から電話があり、「招待するつもりだが確認したいことがあるので、一度会ってお話をしたい。」と言われました。新宿駅近くの喫茶店で校長、副校長と会いました。話の内容は簡単で、「卒業式には祝意だけを述べるために来るのですね」というただ一点を確認するためだったのです。私は初めから、卒業式には生徒達に祝意を伝えるためのみに行くつもりでした。現在都教委とたたかっていることなどを話すことは、夢にも思っていませんでしたし、卒業式にふさわしくない話です。招待状を出すために、わざわざ校長、副校長がそろって会いに来ること事態が前代未聞であり、校長も「あるところから指摘があった」と発言したため、都教委の強い指導があることは間違いないと確信しました。卒業式においても私の言論を封殺するような出来事がありました。従来の三鷹高校の卒業式(私の校長時代も)の来賓紹介では、一人ひとりの名前を読み上げると、来賓が起立をして卒業生や保護者に対して「おめでとう」等の簡単な祝意を一言述べていました。今年も最初2〜3人の来賓を紹介し、来賓も従来どおり一言祝意を述べていました。ところがその後、来賓を紹介していた副校長が「時間の関係上、これ以後は名前を読み上げるだけにさせていただきます。」と突然言ったため、それ以後の人はただ起立して一礼をするだけになりました。当然私の発言を封じるためとしか考えられません。なぜなら今年の卒業式の来賓が特に多いということは無く、もし全員の来賓が一言祝意を述べたとしても時間的にも全然問題ありませんでした。今回の副校長の発言をおかしいと思った教職員はいました。職員室でH教員が私にそのことを伝え、それは私に一言も発言させないための手段だと言いました。また後日、卒業生の保護者からも同様の話を聞きました。保護者の間で「あれは土肥先生を発言させないためだ」と話題になったそうです。このような嫌なことがありましたが、とても嬉しかったこともありました。卒業式が終わって退場する際、保護者に一言お祝いの言葉を述べたら、保護者から万雷の拍手が起こったことでした。卒業生には、卒業式の後、卒業生主催の卒業を祝う会に招待されていたので、その場でお祝いの言葉を述べようと決めていたのですが、保護者には一言も言う機会がなかったので、退場の時、祝意を述べたのです。

今回の出来事から、都教委は教育の主体である生徒や保護者のことはどうでもよく、ただただ都教委の権力を守るための教育行政を行っている、ということを強く感じました。私が現職中に受けた言論弾圧も、ただただ都教委の権力を守るためだったことが、この出来事で明白になったと思います。

2010年8月1日      

  元三鷹高校校長 土肥信雄

 

 


2010年9月9日
古林 治

 
 
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